魏志倭人伝 卑弥呼 古事記 日本書記 万葉集 甲骨文字 以音 五経基軸文法による解読

漢文史記は五経文法が採用されています、この五経文法は殷時代の甲骨文字(漢字変換)でも採用されており、古代中国は唐時代の末期で消滅、日本では奈良時代(西暦720年)頃で消滅して現在に至っています、この漢文史記を一字一句解読したブログになります。

魏志倭人伝 景初四年五月=実在しない年号の三角縁神獣鏡

神獣鏡の解読 Ⅱ

景初四年五月丙午之日陳是作鏡吏人△之位至三公母人△之保子宜孫寿如金石兮

景初四年五月丙午之日陳是作鏡吏人銘之位至三公母人銘之保子宜孫寿如金石兮

<注釈 >

景初四年五月=実在しない年号について、邪馬壹國は自衛防衛状態にあり、戦闘の備え時期で魏國に朝貢を出せない状態なので魏國の天子が崩御したことは知らなかったと思われる。

魏國の吏人名詞、次の官位、次席人も中央からはなれるという漢文は含まれていませんが吏(離)人の意。

都の防御は含まれていません。

ただし、(兮=強調の語気を表す)漢字を記述しています。

△の漢字は埋めています。

積数による兵数=二萬五千兵

羈縻政策(きびせいさく)中国の王朝によっておこなわれた周辺の異民族に対する統御政策の呼称

邪馬壹國は製造した銅鏡(魏國への嘆願、邪馬壹國の属國に対し羈縻政策(きびせいさく)の吉備國、(侏儒国(しゅじゅこく)=四国の女王等に送っている可能性があります。

【補足】

漢代之後 - 景初三年 - 中國哲學書電子化計劃 (ctext.org)

《隋唐》《通典》《禮十》《祫禘下》

武帝景明中,祕書丞孫惠蔚上言:「魏明帝以景初三年正月崩,至廢帝正始二年,積二十五晦為大祥。有司以為禫在二十七月,到其年四月,依禮應祫。

王肅以為禫在祥月,至其年二月,宜應祫祭。雖各異議,至於喪畢之祫,明年之禘,其義一焉。請取鄭捨王,禫終此晦,來月中旬,禮應大祫。六室神祏,升食太祖。

明年春享,咸禘群廟。自茲以後,五年為常。又古之祭法,時祫並行,天子先祫後時,諸侯先時後祫。

此於古為當,在今則煩。且禮有升降,事有文質,適時之制,聖人弗違。當祫之月,宜減時祭。」從之。

【重要文脈:要約】

【宣武帝景明中,祕書丞孫惠蔚上言:】【魏明帝以景初三年正月崩,至廢帝正始二年,積二十五晦為大祥。有司以為禫在二十七月,到其年四月,依禮應祫。】

【諸侯先時後祫。⇒事有文質,適時之制,聖人弗違。】

【景初三年正月崩,至廢帝正始二年】の期間(積二十五晦為大祥。有司以為禫在二十七月)は【事有文質,適時之制⇒(文質=祥月:元號等、適時之制⇒景初四年】

 

(正)始元年陳是作鏡自有経述本自州師杜地命出寿如金石保子宜孫

<注釈 >

魏國の吏人名詞、次の官位、次席人も中央からはなれるという漢文は含まれていませんが吏(離)人の意。

都の防御は含まれていません。(自州=自國に変わりました。)

師=兵数用語

積数による兵数=二萬五千兵

羈縻政策(きびせいさく)中国の王朝によっておこなわれた周辺の異民族に対する統御政策の呼称

邪馬壹國は製造した銅鏡(魏國への嘆願、邪馬壹國の属國に対し羈縻政策(きびせいさく)の吉備國、(侏儒国(しゅじゅこく)=四国の女王等に送っている可能性があります。