魏志倭人伝 卑弥呼 古事記 日本書記 万葉集 甲骨文字 以音 五経基軸文法による解読

漢文史記は五経文法が採用されています、この五経文法は殷時代の甲骨文字(漢字変換)でも採用されており、古代中国は唐時代の末期で消滅、日本では奈良時代(西暦720年)頃で消滅して現在に至っています、この漢文史記を一字一句解読したブログになります。

09 南行至投馬國の所在地、現在は久留米市大善寺駅、実測測定着地点の積算算出距離。

南至投馬國 水行二十日 官日彌彌 副日彌彌那利 可五萬餘戸

<所在地>

陳寿の記述で実測距離は経典(四書五経)の漢文(借字)特殊文法活用で実測距離は積算算出して表れます。

 

<当方のブログを閲覧してくださるみなさまへ>

現在に於いても、政権を担う公人の重要書類、書簡は秘密保持が維持されています、古代の同様ですが、PCパスワードも存在しないので、五経文法が活用されます。

しかるべき公人にしか解読できないようになっています。

不彌國~投馬國~邪馬壹(臺)國へ到るまでの距離は記述されています、実測距離は積算算出して表れます。

不彌國~投馬國=77里=33.88km=うきは市(現、古墳群の中心所在地~福岡県久留米市大善寺町(駅周辺)

Gooleマップ測定距離=33.66km=徒歩=6 時間 58 分(33.6 km)

投馬國~邪馬壹(臺)國=36里=15.84km、福岡県久留米市大善寺町(駅周辺)~大字久泉、福岡県八女郡広川町

 

<注釈>

Gooleマップ測定距離=直線距離ではありません。

<注釈>

当時もある程度の路(道路)も整備され、直線上は武器、織物の原料植物栽培や、湧水があったと思われます。

福岡県久留米市大善寺=出発地点

福岡県筑後市大字羽犬塚=7.8km

福岡県八女市亀甲=2.8km

福岡県八女市吉田773=2.4km

大字久泉、福岡県八女郡広川町=2.2km

Gooleマップ測定距離=合計距離=15.20km

<注釈>

八女郡広川町へは南側道路からが謁見道路となります。

古くから「天子南面す」と言われるように玉座は南、太陽の方角を向いていました。

 

<邪馬壹(臺)國の所在地の断定理由>

八女市 福岡県八女市吉田1396−1に所在する岩戸山古墳と推測したからです。

魏志倭人伝の記述(卑弥呼以死 大作冢 徑百餘歩)五経文法積算算出の結果、同等寸法と陵墓の形状を考慮して判断いたしました。

八女郡広川町が邪馬壹(臺)國の中心(太極)、八女市 福岡県八女市吉田1396−1に所在する岩戸山古墳の方位は西南の鬼門で守り神として鎮座する陵墓。

 

陳寿魏志倭人伝の実測距離はすべて都(洛陽)~邪馬壹(臺)國至るまで誤差が少ない法里で記述されています。

魏國=1里=0.43416km=(繰り上げ=0.44km)

 

南行至投馬國の所在地は現在は久留米市櫛原町(久留米大橋下河川敷グランド近郊、北側が、(伊都國の國境、筑紫川の向こう岸)

南、投馬國との國境は高良大社~東に筑紫川に直線を引いた線上が領土(以南が投馬國)

東側は有明海(注 現在の地図とは相違があると思われます、福岡県大川市一部(当時は筑紫川河口又は有明海吃水域、福岡県大木町不明(有明海?)

 

<注釈 1 >

<投馬國=五萬餘戸×家族構成人数=(兵員=夫=1人、婦人=1人、(妾=3人~5人)、子供=5人、死亡率を考慮して平均=6人~7人=30萬人~35萬人>

(注 兵員数=7割想定、老人を除く、=3萬5千人)

<邪馬音(臺(國=七萬餘戸×家族構成人数=(兵員=夫=1人、婦人=1人、(妾=3人~5人)、子供=5人、死亡率を考慮して平均=6人~7人=4.2萬人~4.9萬人>

(注 兵員数=7割想定、老人を除く、=4萬9千人)、備考、投馬國兵員数=4萬人、奴國=奴婢兵員数=2萬人。邪馬壹(臺)國自衛防衛軍、総合計=約10萬人

 

上記の記述は魏志倭人伝の記述の後半で邪馬壹(臺)國の自衛防衛軍と狗奴國との戦が始まります、その記述で防衛軍事訓練で兵員数が記述されていますので、ご記憶ください。

 

<注釈 1 >

投馬國=五萬餘戸+邪馬壹國=七萬餘戸=合計十二萬戸(こ=戸主=12萬人)×(平均家族=6人~7人)=4.2萬人~4.9萬人

12萬戸主家族以外に鮮卑(下僕、使用人)の存在があります、衣食住を検証する必要が生じます。

投馬國の検分視察期間は1週間で露田の実測検分も無いのに、期間が長い、想定としては邪馬壹(臺)國に従属する十三國の出先機関(藩)及び、護衛軍の護官、兵員等の國

九州の各為(い=統治する)王の一族の人質。

 

<注釈 2 >

藩=地方を治めて、王室の守りとなった(邪馬壹’臺)国の属國=諸侯。)

古代中国の周で、王室を護衛する諸侯を藩[1]と呼んだのが由来とされる。転じて、国を冊封された諸侯一般、およびその領地を指すようになった。

 

冊封(さくほう、さっぽう)又册封とは、称号・任命書・印章などの授受を媒介として、「天子」と近隣の諸国・諸民族の長が取り結ぶ名目的な君臣関係(宗属関係/「宗主国」と「朝貢国」の関係)を伴う、外交関係の一種。

 

逆に、邪馬壹(臺)國からは従属國に(刺史=しし)の派遣と従属國の防衛補助兵員の派遣。

邪馬壹(臺)國に対し政治行政と組織の検分と思われます。中国の漢時代に行われ、倭国で(二十等爵、爵制)が実施されているのかを確認し詳しく検分。

 

<投馬國・邪馬壹國(那國の戸主(戸数が多いので比較として下記を記述。>

加賀藩前田家

加賀藩前田家、1721年、物語藩史6巻、人口約70万人、武士人口は67302人、人口の約10%

武士人口と一口に言っても(老人や子供、女子も含む)、軍事組織の人員として期待出来るのは戸主のみ。

明治元年における加賀藩の武士は士分7077戸、卒分(足軽以下)9474戸の合計16551戸、1戸につき約4人妥当。

 

<邪馬壹(臺)國=自衛防衛軍兵=想定兵数=10萬兵>

<所在地、備考>

投馬國と邪馬壹(臺)國の人口密度を考慮すると、二國間の國境は現在地図上では九州新幹線矢部川下流の東側が投馬國、

西側が邪馬壹(臺)國(現、八女市みやま市大牟田市以北が想定されます。

 

南至投馬國 水行二十日 官日彌彌 副日彌彌那利 可五萬餘戸

 

<解読>

南至投馬國水行二十日官日彌彌副日彌彌那利可五萬餘戸=南に行くと投馬國に至る、(注 検分、水行(借字)=すいこう=遂行=二十日間、4月9日~4月29日

副日彌彌那利可五萬餘戸=4月29日、彌彌=(何度も繰り返し見て。また、見ること。)(那利=だり=接助=事例=楽しんだり、飲んだり)、五萬餘戸

那利可=(もう一方の意味は那國より階級的位置的に低い国)

 

官曰彌彌、副曰彌彌那利=官は彌彌(みみ)という。副は彌彌那利(みみなり)という。=官職ではありません、叉、表音読みも間違い。

この後も通説では官職としていますが、でたらめ解読で日本史の計り知れない汚点です。

 

<解読 積数算出日時 1>

官日彌彌 副日彌彌那利

4月22日、4月29日

<解読 漢文(借字)読下し 2>

官日=かんじつ=閑日=ゆったりと過ごす日

彌彌=(何度も繰り返し見て。また、見ること。)魏国による属國の国税調査なので事細

かく検視。

延べ八日間も検視しています、(五萬餘戸×5人家族=25萬人になります、4人家族で20萬人

後の記述で出てきますが、家族構成(階級=上戸=男子1人に対して婦人4.5人、下戸=男子1人で2.3人)有しています、男子、老人=5萬人~7萬人・婦人=12萬人・子供=6萬人=想定人工

露田(田んぼ)の記述はなく、20萬人~35萬人が生活するには生産食料の自給が不可欠となります、属國からの税の徴収だけでは無理が生じます。

魏國に対価は求められません、想定するのは貿易で財源をもとめるしか方法がありません。

1武器の輸出(刀、弓、矢)2(鉄製品の農機具=鍬、鋤等)3繊維(麻、紵=からむし、正絹、刺繡製品=金絲、染め正絹)4鉱物製品(金、銀、辰砂、朱=顔料、白水晶=白珠)

5 海産物(真珠、珊瑚、干し鰒、)

邪馬壹國の貿易相手國(現在の日本では長門山口県、(羈縻=きび=吉備=岡山県)、四国=愛媛県)古代中国では寧波市=ニンポー(呉)、羅國=シャム國、黒歯國=ペルシャ

資源の確保=鉄は属國の百済等(卑弥呼の時代は現在のソウルまで邪馬壹國の属國で倭國です。

金、銀、水晶等は邪馬壹國の東南=鯛生金山(たいお)…金・銀・銅・鉛、採掘は(南人=羅國、黒歯國)、(奴婢、卑弥呼の没で葬儀礼で喪に服しています。叉、殉葬。)

 

羈縻政策=きびせいさく、参考、吉備の語源>

羈は馬のおもがい,縻は牛の鼻綱を意味し,2字でつなぎ止める,牽制するの意味。中国諸王朝が外族内部の行政組織をそのままにして外族を統御する伝統的政策をいう。

すでに漢代には外族の首領に対し爵位,恩典を与えて王朝と結びつけようとしており,唐では羈縻州といって外族の部落に州や県をおき,その首領に唐の官名である都督や刺史を与え,都護府がこれを統括した。羈縻州は内地の州をはるかに上回り,850州余もあったといわれる。

 

<なぜ、くどくど説明を記述するのか、1700年間も解読されず、誤解釈のオンパレード、お付き合いください。>

 

魏國の天子の詔勅倭国国税調査検分に来た検使の上奏報告書を、後年(晋國の天子の正史の記述者として任命された陳寿)がどのように記述したのか、できるだけ正確に解読するためです。

投馬國は五萬餘戸(戸主)が有、露田は無く、1週間も滞在し、ボーと過ごしていたのか疑問が湧きます、叉、投馬國、邪馬壹(臺)國(那國)の合計戸主総数は12萬戸に及びます。

邪馬壹(臺)國の人口数を検証する過程で単純に(戸主の家族構成数)を積算、乗算すると誤差が大きくなるので二十等爵の爵製を反映して計算した結果。

 

邪馬壹(臺)國=総人口、100萬人

(内訳)

對海國 一大國 末慮國 =48000人

奴国         =120000人

伊都國 不彌國    =60000人

小計=228000人

投馬國        =338200人

邪馬壹(臺)國(那國)=444500人

結論結果は次回、南至邪馬壹國 女王之所都 で解読記述を説明いたします。

<従属国、付庸国

内政や外交の処理に関して他国 (宗主国) の指示に服する国。国際法上,宗主国の国内法に基づいて外交関係の一部をみずから有するが,他の一部は宗主国が有する。

付庸国は、一国の一部が国内法により独立的地位が認められたもので、なお邪馬壹(臺)國は従属関係國。

漢書、「百官公卿表上」には爵は「功労を賞する」とあり、国家に対して功労があったものに爵が与えられるとしている。実際に功労によって爵が与えられた例も数多い。

具体的には軍功に対する賜爵、政府に多額の財貨を納めて爵を買う買爵、辺境に新たな邑を作る際に移住した民に対する賜爵などがある。また民衆同士で爵の売買を行う事例もある。

ここで殷王や周王の権威に服した大邑の君主が「諸侯」、王や諸侯の君臨する大邑が「國(コク)」である。 [4] 殷や周といった古代王朝の実態はこのような邑の連合体であり、

その総数は周初で1,700、東周時代で1,200を数えたとされる。

邑から成る社会の発展に伴い、君主の在所である大邑を「都(ト)」、それに従属する小邑を「鄙(ヒ)」の字でも表現するようになる。

紀元前106年、武帝は全国を13州(11州と2郡)に分け、各州に刺史を設置した。これにより郡県は州・郡・県3段階の地方制度に改まった。

<注釈>

二十等爵

爵の授受・剥奪・売爵

上述のとおり、二十等爵制は良民の男性なら庶民でも爵が与えられるのが大きな特徴である。年齢制限は無い。賤民(商人・奴婢・罪人など)は対象外である。

<まとめ>

邪馬壹(臺)國の所在地を投馬國の節で記述したのは、距離を確認するのに記憶がうすれるからです。

 再三に渡り記述していますが、魏志倭人伝は旅行日記的記述ではない、魏國が属國に厳しく行った国税調査報告書、我が国で通説読下し記述では晋國の天子に献上するにしても、丞相、高官に叱咤、激高の後に、廃棄されるような誤解釈読下し文である。