魏志倭人伝 卑弥呼 古事記 日本書記 万葉集 甲骨文字 以音 五経基軸文法による解読

漢文史記は五経文法が採用されています、この五経文法は殷時代の甲骨文字(漢字変換)でも採用されており、古代中国は唐時代の末期で消滅、日本では奈良時代(西暦720年)頃で消滅して現在に至っています、この漢文史記を一字一句解読したブログになります。

邪馬台国 卑弥呼  西暦239年6月死す。 魏志倭人伝の後記述で正始八年の翌年だと、でたらめ根拠で西暦248年、卑弥呼死す。17

つまみ食い歴史学者、愛好家のでたらめ解釈で持論をあたかも正統だと論じ続けている姿は知識が乏しいことで、自身を防御する行為は愚かである。

 

其死有棺無槨 封土作冢 始死停喪十餘日 當時不食肉 喪主哭泣 他人就歌舞飲酒 已葬 擧家詣水中澡浴 以如練沐

<解読>

1 其死有棺無槨封(表音仮名・借字)=其=き=その。それ。人や物事を指ししめす。其死=きし=気死=憤死すること。有=ゆう=叉。棺=かん=ひつぎ。無=む=無し。槨 =かく=ひつぎ。うわひつぎ。棺を納める外箱。無槨=むかく=確報=たしかなしらせ。

2 其死有棺(表音仮名・借字)=其死=きし=奇士=並はずれた器量の人。有棺=ゆうかん=勇敢=物事を恐れることなく積極的にしようとすること。勇気をもって事にあたること。また,そのさま。

3 死有棺(表音仮名・借字)=死有=しゆう=子游。棺=かん=観=目に映った印象。物事の様子・状態。目に映った印象。物事の様子・状態。

子游孔門十哲の一人。姓は言,名は偃(えん)。文学にすぐれ,武城(山東省)の長官となって礼楽を盛んにし,政治の刷新をはかったという。

論語』では魯の武城(現在の山東省臨沂市平邑県)の邑の長官を務め、礼楽を以て民を教化していたという記載がある(雍也第六)。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%90%E6%B8%B8

4 死有棺(表音仮名・借字)=死有=しゆう=蚩尤。棺=かん=観=目に映った印象。物事の様子・状態。目に映った印象。物事の様子・状態。

 

蚩尤(しゆう)中国の神話にみえる英雄神

 

封土作冢(表音仮名・借字)=封土=ほうど=古墳などの盛り土。作=さ=つくる。新たにこしらえる。冢=ちょう=墓。土を盛って作った墓。

<注釈>

儒教五経典に『易経』『書経』『詩経』『儀礼』『春秋』がある、この五経典を基軸に記述され、西暦239年6月卑弥女王死すも文法で隠されているが記述されています、解読されてみてはいかがですか。

喪礼⇒卑弥呼女王が崩御した際の葬送儀礼の記述。

喪礼⇒『儀礼』は周王朝(前1100頃~前256)の創始者であった周公が制定したものとされている。

<解読>

(冢)始死停喪十餘日(表音仮名・借字)=(冢)始=ちょうし=弔詞=死者を弔うことば。弔詞。始=し=始まり。死=し。停=てい=とどまる。とまる。喪=そう=服喪⇐ふくもの略語。十餘日=じゅうよじつ=十四日。

 

(死)停喪十餘日(表音仮名・借字)=西暦239年6月14日⇒五経文法(表音仮名・借字)で記述されています。

※ 停(表音仮名・借字)=てい=丁⇒丁憂 (憂は略字)⇒釈詁に「丁とは、当なり」とある。丁憂あわせて、憂(悲しみ)に遭うこと。服喪⇔丁憂

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%81%E6%86%82

※ 始死⇒荘子の生死観⇒魏・晋時代の文人の礼教道徳及び、後文節の(他人就歌舞飲酒)の狂は達に通じ儒教の概念の道理であると述べた記述。

當時不食肉喪主哭泣(表音仮名・借字)=當=とう=「当然~しなければならない」の意を表わす。當時=とうじ=悼辞=人の死を悲しみいたむ言葉。弔辞 (ちょうじ) 。

  • 葬送儀礼⇒布衣⇒植物繊維で織った布で作った衣服。昔、中国で、庶民は布 (ふ) の衣を身に着けた。死者にそれを着せ掛ける。

 

  • 不食肉喪主哭泣(表音仮名・借字)=不食=ふい=布衣。食肉=いじく=干した肉と塩辛と酒を死者の右側に供える。喪主=そうしゅ=遺族の代表として葬儀を執り行い、故人に代わって弔問を受ける人のことです。

哭(表音仮名・借字)=泣(表音仮名・借字)=哭=こく=哭礼の略⇒遺族は早朝と宵ごとに哭(こく)の礼を行なう。この礼は毎日行なう。婦人たちは、堂の上の定められた位置に並んで哭(こく)の礼を始める。喪主は、西側と南側と東側にならんだ弔問客たちに対して3度ずつお辞儀をし、右にまわって門を入りそのまま哭(こく)の礼を始める。婦人たちは、ふたたび哭(こく)の礼をはじめ、足ぶみをする。弔問客たちが退出すると、婦人たちは堂の上で足ぶみをする。喪主は彼らを見送ってお辞儀をする。喪主は弔問客たちにお辞儀をして見送り終ると、近親者たちに会釈する。おのおの、そこで定められた服喪の仮小屋に帰る。

哭泣(表音仮名・借字)=泣(表音仮名・借字)=哭泣⇒(注 倒語⇒崩御、歿の際に使われる文法)⇐泣哭=泣き叫ぶこと。

【中国古代の葬送儀礼

魂呼び・死亡通知と弔問・死者に衣服を贈る・死装束の準備・湯灌(第1日)・死者へ食べ物を捧げる・死者へ食べ物を捧げる・死装束の着衣と依代(よりしろ)・小斂(死者を衣服でくるむ)の用意・死者を衣服でくるみ縛ること・死者への供物。

 

柩を仮埋葬する・大斂 だいれん・柩を穴に納めること・大斂の供物・弔問客たちの退出・答礼・哭(こく)の礼・埋葬のための土地を占う。・埋葬のための土地を占う。・椁の準備・埋葬日を占う・柩を穴から出す。

 

柩を宗廟に移し、先祖の霊とまみえさせる・魂車と馬とを廟に引き入れる・贈物をする際の儀礼・埋葬の当日、出柩に先だって供物を供える・依代(よりしろ)を門外に運び出し、車馬と飲食物と副葬品とを並べる。

 贈物と副葬品のリストを読み上げる・埋葬。

<でたらめ通説解釈>

殯(かりもがり)する期間は十余日(かりもがり)する期間は十餘日、殯(かりもがり)の漢字・熟語はどこにも記述が無い。

一読して十餘日の殯期間で納得するが、短期間の殯はありえない。

練沐⇒通説造語 【注釈 練沐は存在しない熟語⇒格言・複合詞・合成詞・俚諺(ことわざ)・中国「2字の並び」という意味の「駢字(べんじ)】もありません。

 

其死有棺無槨 封土作冢 始死停喪十餘日 當時不食肉 喪主哭泣 他人就歌舞飲酒 已葬 擧家詣水中澡浴 以如練沐

<解読>

1 他人就(表音仮名・借字)=他人=た=ほか。別の。自分以外の。人=にん=ひと。就=じゅ=つく。つける。仕事や任務につく。

2 他人就歌(表音仮名・借字)=他人=たにん=親族でない人。人就=にんじゅ=忍受=耐え忍んで受け入れること。就歌=じゅか=樹下=樹木の下。じゅげ。

(歌)舞飲酒已葬(表音仮名・借字)=(歌)=か=うたう。節をつけてうたう。音楽にあわせてうたう。舞=ぶ=踊るのは「体を動かして心を落ちつかせ、気持ちを鎮めるため」

※ 『礼記』には、踊るのは「体を動かして心を落ちつかせ、気持ちを鎮めるため」とあり、また度数を決めるのはそれが過度にならないためとある。つまり儀式によって、抑えられた感情を発散する機会が与えられるが、それが行きすぎないように回数が決められたのである。

 

(舞)飲酒已葬(表音仮名・借字)=(舞)飲=ぶいん=音がしないこと。音が聞こえないこと。⇔無言。飲酒=いんしゅ=酒を飲むこと。已葬=いそう=埋葬。

 

擧家(表音仮名・借字)=きょか=炬火=たいまつ。かがり火。こか。

擧家詣(表音仮名・借字)=擧=きょ=あげて。こぞる。こぞって。みな。全部。家=か=一族。同じ血筋の人たち。詣=けい=もうでる 。神社・寺・墓などにお参りする。

 

(詣)水中澡浴(表音仮名・借字)=(詣)水=けいすい=渓水=谷川の水。谷川。水中=すいちゅう=水のなか。澡浴=そうよく=からだを洗い清めること。

 

(浴)以(表音仮名・借字)=(浴)以=よくい=浴衣=入浴の際、また、入浴後に身につける衣服。以=い=もちいる。使う。使用する。

 

如練沐(表音仮名・借字)=如練=じょれん=鋤簾=土砂・ごみなどをかき寄せる用具。長い柄の先に、竹で編んだ箕 (み) 、または歯をきざんだ鉄板を取り付けたもの。⇒櫛。

<注釈>

世界大百科事典内の箕の言及

み【箕】⇒【呪】より

…まじないはいわば目に見えない世界との交渉であるから,それを可視的なものに転換するために呪物がよく用いられる。民俗信仰においては,箕,ほうき,櫛,草履,臼,石,豆,米,針などの日常生活に深いかかわりをもつものが,その機能や形などの一部を抽象化して象徴的に利用されることが多い。穀物と塵芥をふり分ける箕は,この世と異界をふり分けるものであり,また塵芥を掃き出すほうきは赤子をこの世に出す呪物や長居の客を家の外へ出す呪物として使われ,さらに魔よけにも使われる。…

 

日本では古来、櫛は別れを招く呪力を持っているとされている。

 

<解読>

練沐(表音仮名・借字)=練=れん=喪服。一周忌のときに着る白い喪服。沐=ぼく=あらう。髪の毛を洗う。

<要約>

卑弥呼女王の死(崩御)、確かな知らせである。新たに陵墓を作っている、棺はあるが無槨である、並はずれた器量で物事を恐れることなく積極的にしようとする女王で、目に映った印象は(子游・蚩尤)のようだった。生は始で死に繋がり生となる。葬送儀礼(服喪⇔丁憂)西暦239年6月14日。死者に布衣を着せ、した肉と塩辛と酒を死者の右側に供え、哭(こく)の礼を行なう。魂呼び。

  • 子游・蚩尤⇐どちらの人・神を指しているのかはわかりません。已葬=いそう=埋葬にかがり火を焚く。一族。同じ血筋の人たちは、渓水でからだを洗い清める際に、浴衣を使用して髪の毛を洗い櫛で鋤いて白い喪服である。※ 古代中国の葬送儀礼で婦人は服喪、丁憂(ていゆう)⇒白い喪服で約2年間過ごすことが定められていた。弔問者20萬人魏志倭人伝「『三国志』の著者である陳寿(233~297年)の世界観や政治状況は、約37万字に及ぶ『三国志』(それに付けられている裴松之〔372~451年〕の注は、本文に匹敵する約36万字)のすべてに目を通すだけではなく、陳寿の世界観を形成している儒教の経典(けいてん)に通じなければ分からない」と述べている。

 

  • 裴松之〔372~451年〕
  • 供養(弔問儀礼者⇒他人就歌舞飲酒)⇒1萬人
  • 五経文法積算算出>
  •  
  • 自衛の任務以外の親族でない人は樹木の下で女王の崩御を耐え忍んで受け入れ歌舞飲酒している人や、無言で酒を飲んでいる人もいる。

新井白石本居宣長による誤解釈の功罪では済ませられない、でたらめ解釈を連々と引きずる歴史学者・研究者・愛好家等の知識が浅い著作書、講演会は愚かである。

魏志倭人伝  牛馬虎豹羊鵲はいない。馬鹿げた解読。一軍を率いる将軍の綿甲冑(貫頭衣)の背中の刺繡模様と邪馬壹国連合の負け戦の予感記述。

<デタラメ記述>

古代の日本には、もともとカササギは生息しなかったと考えられる。「魏志倭人伝」も「日本にはカササギがいない」と記述している。

種禾稻紵麻 蠶桑 緝績出細紵縑緜 其地無牛馬虎豹羊鵲 兵用矛盾木弓 木弓短下長上 竹箭或鐵鏃或骨鏃 所有無與儋耳朱崖同

魏志倭人伝 補足・解読 15(上) 】

<解読>

種禾稻(表音仮名・借字)=種禾=しゅか=朱夏=赤色を夏に配するところから》夏の異称。《季 夏》。種=しゅ=首。禾稻=かとう=裹頭=かしらづつみ。⇒(注 頭巾のような頭部の防護頭巾)

種禾稻紵麻=種=しゅ=朱色=辰砂=漆の顔料=稲の金糸を刺繡。紵麻=いちび。アサの一種。

(稻)紵麻(表音仮名・借字)=稻紵=とうちょ=頭緒=心の中におこるいろいろな思い。(注釈 現代辞書⇒1 刀に付ける正絹紐⇒江戸時代の紐⇒下緒(さげお)。2 明治時代の軍刀紐⇒刀緒(とうちょ)

<注釈>

※ 陳寿の文脈から推測すると(刀緒(とうちょ)現代辞書には熟語の意味は存在していませんが、⇒(1頭緒==心の中におこるいろいろな思い。)

※ 刀緒(とうちょ)⇒刀紐

<解読>

(紵)麻(表音仮名・借字)=紵)麻=ちょま=苧麻=からむし麻。

<注釈>

※ 苧麻=天然繊維の中で繊維強度が最も強靭(羊毛の4倍、綿の2倍)。水を含むと繊維の強度がさらに60%増す。防護服の繊維。

<解読>

蠶桑緝績出細(表音仮名・借字)=蠶桑=さんそう=攅叢=あつまりむらがること。また、よせあつめること。

<注釈 緻密な漢字構成で記述しています。>

※ 表音は正しくても、該当する熟語の検索が困難こんなんを極めます、該当熟語を深読みして初めて使用した(表音仮名・借字)の意味が判明します。

※ 陳寿の記述の奥深さには驚きをかくせません。

<解読>

桑緝績出細(表音仮名・借字)=桑緝=そうけん=宋謙(注 215年、孫権合肥を攻めたとき、宋謙は一軍を率いて参加した。⇒一旁的宋謙聽了眾人的話,臉上青一陣・白一陣。

(緝)績(表音仮名・借字)=(緝)績=けんせき=蹇碩(官職⇒中常侍)黄門の防衛の蹇碩⇒黄門侍郎(こうもんじろう)は、中国の官職名の一つ。

※ 霊帝に寵愛された。西園八校尉が置かれた時、宦官ながら身体壮健という事で上軍校尉に任ぜられ、その筆頭として近衛軍を統括した。黄門であった蹇碩

※ 秦において、皇帝の勅命を伝達する官職として創始され、漢以降の歴代王朝にも受け継がれた。秦や漢では、禁中の門(禁門)が黄色に塗られていて「黄門」と呼ばれていた。 

出細(表音仮名・借字)=出細=すいさい=水寨。

※ 孫権劉備連合軍は東南の風を利用し、火を点した松明を持ち、曹操軍の水寨を火攻めで攻撃しました。曹操軍の船は一気に燃え尽き、その燃え上がる炎で岸壁が真っ赤に染まったことから、 「赤壁」という名が付きました。孫権劉備連合軍は勢いに乗り攻撃を続けたため、曹操軍は残りの部下をつれて江陵より退散しました。

<苧麻の布地の地色及び刺繡の種類>

1 蹇碩⇒黄色⇒無支祁・虎

2 水寨⇒赤色⇒雉・牛

3 宋謙⇒白色⇒馬・豹

4 宋謙⇒青色⇒鵲・羊

<注釈>

※ 自衛防衛軍の西園八校尉(さいえんはつこうい)の官位の将軍の貫頭衣は上記のように苧麻のキルティング(綿襖甲=めんおうこう)で刺繡されています。

※ 綿襖甲=めんおうこう

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B6%BF%E8%A5%96%E7%94%B2

※ 西園八校尉(さいえんはつこうい)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%9C%92%E5%85%AB%E6%A0%A1%E5%B0%89

種禾稻紵麻蠶桑緝績出細紵縑緜其地無牛馬虎豹羊鵲兵用矛盾木弓木弓短下長上竹箭或鐵鏃或骨鏃所有無與儋耳朱崖同

【ここからが驚異の解読・歴史史実】

種禾稻紵麻=紵麻=いちび。アサの一種。種=朱色=辰砂=漆の顔料=稲の金糸を刺繡。

不彌國(現在、武雄市)水銀鉱山を統治して卑弥呼の実家、(祖)の國で辰砂、朱、鍍金に使用する鉱物を抑えているので財力は絶大である。

捺染(なっせん)などに使うための、模様を彫りぬいた木。

なせんともいう。繊維に染着性をもつ染料を捺染糊に混ぜてペースト状にして,印捺する染色法。

縑=目を緻密(ちみつ)に固く織った平織りの絹布。かとりぎぬ。かとり。二本の生糸を合わせた糸で、細かく織った絹布。

緜=わた。まわた。

黄・赤・白・青の帆布の貫頭衣に蠶桑 緝績出細=蚕の細い糸で縑で(出)縑=綿を中敷き、(キルティング)にして、金糸で稲の刺繡をし、その麻布(帆布)地の背中の中央に雉・無支祁(むしき、ぶしき)・虎・雉・牛・馬・豹・・鵲(かささぎ)・羊の刺繡貫頭衣⇒綿甲冑。

これは、倭国の先端技術になります、でなければ記述するはずがない。

<刺繡イメージ参照>

https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0008679

※ 波涛飛龍模様陣羽織 - 東京国立博物館 画像

<解読>

紵縑緜其地表音(仮名・借字)=紵=ちょ=苧=からむし。縑=けん=織目を緻密(ちみつ)に固く織った平織りの絹布。かとりぎぬ。二本の生糸を合わせた糸で、細かく織った絹布。

緜其地表音(仮名・借字)=緜=けん=わた。まわた。其=き=その。地=じ=布地。

(地)無牛馬虎豹羊鵲表音(仮名・借字)=(地)=じ=雉。無⇒む⇒無(略)⇒無支祁(むしき、ぶしき)。牛・馬・虎・豹・羊・鵲(かささぎ)

 

※ 無支祁(むしき、ぶしき)は中国に伝わる妖怪である。無支奇、巫支祁(ふしき)とも。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E6%94%AF%E7%A5%81

鵲(かささぎ)。鳥の名。カラス科の鳥。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%82%B5%E3%82%B5%E3%82%A

<解読>

兵用矛盾木弓(表音仮名・借字)=兵用矛盾=へいよう、む、じゅん、もくきゅう=兵用の矛・盾・木弓。

木弓短下長上(表音仮名・借字)=木弓短下=もくきゅうたんかじょうしょう=木弓は短く。短下=単果(たんか)=1個の花に生じた1個の子房からできた果実。大部分の果実はこれに属する。⇒梅弓・桃弓・桑弓など。

長上(表音仮名・借字)=長上=じょうしょう=上生=〘仏〙 極楽往生の等級の名。上品(じようぼん)・中品・下品に分けて、さらにそれぞれを上中下の三生に分けたものの最上位。 → 九品(くほん)

竹箭或鐵鏃(表音仮名・借字)=竹箭=ちくせん=矢竹⇒矢。或=わく=あるいは。または。ある時(場合)は。鐵=てつ=鉄。鏃=そく=やじり。

或骨鏃所有(表音仮名・借字)=或=わく=あるいは。または。ある時(場合)は。骨鏃=こつせん=骨やじり。所有=しょゆう=自分のものとして持っていること。

 

(有)無與(表音仮名・借字)=(有)無=ゆうむ=生死、勝敗、黒白など対立する二つの概念。與=よ= 「か」と読み、疑問の意を表わす。

儋耳朱崖同(表音仮名・借字)=儋耳=せんじ=儋耳郡⇒(現代辞書⇒だんじぐん)。朱崖同=しゅがいどう=珠厓(郡)。同=どう=同じ運命。

<注釈>

魏國の使節かどのように伝えたか不明ですが、陳寿の論評がきびしいです、これが現実に起こった歴史である。

所有無與儋耳朱崖同=魏國の使者は那 國連合の有無に係る自主防衛を見て将来を暗示する。

所有無與儋耳朱崖同=(論語)中国にかつて存在した郡に儋耳郡(たんじ-ぐん)が存在したが、儋耳郡は珠厓(崖)郡に編入され滅亡した。

所有無(壹與が率いる)儋耳郡は珠厓(崖)郡に編入され滅亡することを暗示。

 

<注釈>

陳寿の記述は儋耳郡(せんじ-ぐん)と表音読みを指示しています。儋=音読み:タン、 セン、 ゼン。

※ 五経文法の積算計算に使用する数なのでセンを指示しています。

儋耳郡(たんじ-ぐん)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8F%A0%E5%B4%96%E9%83%A1

珠崖郡(海南島

前漢南越国を滅ぼした翌年の紀元前110年(元封元年)、海南島に珠厓郡と儋耳郡が置かれた。郡が置かれてから紀元前86年(始元元年)までの間に、6回の反乱が起こった。紀元前82年(始元5年)、儋耳郡を併合した。紀元前59年(神爵3年)、珠厓3県が反乱を起こした。紀元前53年(甘露元年)、9県が反乱を起こした。紀元前48年(初元元年)、また珠厓郡が反乱を起こした。紀元前46年(初元3年)、賈捐之の提議を受けて、珠厓郡は廃止され、その地は放棄された。

魏志倭人伝 補足・解読 15(上) 】

先端技術で染色、刺繡縫製された軍事服のあでやかさに驚きを隠せない記述。

軍需物資の供給=都=伊都國=吉野ヶ里遺跡だと想定しています。

食料=米=南春米、茜米=赤米の備蓄

衣服の供給=田んぼ面積=ゴルフ18ホール施設=7施設分(約210万坪)×1割(麻栽培畑)=約21万坪=70里×400反=28000反(麻布)×3(三毛作)=84000反

約28000反分の反物が取れます。

1人兵士分の麻布=約28000反分÷(1人兵士分24m)=約42000兵士分しか製作できません。

10万人分を供給するには、1年3回収穫で2年間かかります。

麻の手織り日数=42日間=40反→供給するには邪馬壹国の想定人口が57万人から71万人の想定として老人、男子、子供、を抜いて約10万人の女性が手織をして約100日間かかります。男子は武器の製作(矛・盾・弓・矢)

【コメント】

五経文法漢文につき解読方法は記述できません。

【邪馬壹(臺)国那 國連合の自主防衛武器の数量】

矛・盾・木弓・木短弓 

自衛防衛軍⇒10萬兵に対して⇒矛・盾・木弓・木短弓 (各80000個・張)

竹箭(や=矢、箭=矢竹)

鐵鏃・骨鏃 合計本数⇒8千萬本÷(8萬兵)=1兵員分として(1000本)ですが、戦は1日で終わりません。⇒40日間の短期戦争で使える矢は25本(日)

<注釈>

※ 骨鏃についての検証⇒鹿角素材⇒1頭⇒200個(毎年生え変わる)1000萬本は不可能。⇒代替え鏃⇒石鏃・貝鏃⇒大分県姫島産黒曜石・ウグイスガイ(科)この科に真珠のアコヤガイがぞくしている。

※ 矢竹の採取⇒3年竹以上を採取、最低半年寝かせ、炭火で矯正(矯める)、鋸で裁断。

※ 矢羽根⇒鷹の羽根が最上だが不可能⇒鵞鳥・アヒルの飼育で生え変わる換羽を別名で「鳥屋(とや)」時期に採取。1羽当たり20本の矢としても膨大ば羽根が必要になります。

※ 制作道具⇒のこぎりは古墳時代に現存していました。砥石・麻紐。

※ 矢の保管⇒矢竹は虫食いがあります。防虫保管⇒楠⇒樟脳。

※ 弓の弦⇒材料は、苧(からむし)や麻などの自然界から得た繊維を束ねて用いる。薬煉(くすね)補強のために弦に塗る、松脂を油で煮て練ったもの。

※ 鐵鏃⇒鐵鏃の制作についての記述がないので省略。

<注釈>

邪馬壹国=九州國のなかでどこまでが自主防衛軍に加わったのかは不明です。

【投馬國、伊都國、奴國、不彌國、那國】VS【狗奴國、佐治國、肥□國=名称不明】

【自主防衛の兵士数】

男子兵士・奴婢男子兵士

90,000

婦人・奴婢(女)

10,000

総兵士人員数 

100,000

【狗奴國、佐治國、肥□國=名称不明】

男子兵士・奴婢男子兵士

総兵士人員数

160,000人⇒(NO 13 狗奴國 解読参照)

 

種禾稻紵麻 蠶桑 緝績出細紵縑緜 其地無牛馬虎豹羊鵲 兵用矛盾木弓 木弓短下長上 竹箭或鐵鏃或骨鏃 所有無與儋耳朱崖同

<要約>

朱夏、10萬兵(一軍=12500兵)を率いる八将軍の貫頭衣は黄・赤・青・白の」地に、伝説上の黄色は無支祁(むしき、ぶしき)・虎、赤色は雉・牛、白色は馬・豹、青色は鵲・羊が絹糸・金絲で刺繡がされている。

兵は矛・盾・木弓を持ち、その木弓は単果で梅・桃・桑の最上位である。箭(矢)は鉄鏃あるいは骨鏃で自分の物として持っている。生か死、勝か敗か、いずれにしても、邪馬壹(臺)国連合は儋耳郡(せんじぐん)と同じで 珠厓郡(しゅがいぐん)の狗奴國に反乱をおこされ滅ぶだろう。

<解読についての補足>

刺繡の種類は6種類⇒何かがおかしい。10萬兵(一軍=12500兵)に対して六将軍の刺繡だけ?地=じ=雉。無=む⇒検索キーワード⇒む 動物、む 神話、む 古代中国⇒山海経⇒無支祁(むしき、ぶしき)

これで10萬兵(一軍=12500兵)を率いる八将軍そろいました。

 

<当ブログ前半に記述投稿有り>

男子無大小 皆黥面文身 自古以來 其使詣中國 皆自稱大夫 夏后少康之子封於會稽 斷髪文身 以避蛟龍之害 今 倭水人好沉没捕魚蛤 文身亦以厭大魚水禽 後稍以為飾 諸國文身各異 或左或右 或大或小 尊卑有差 計其道里 當在會稽東治之東

 

倭地温暖 冬夏食生菜 皆徒跣 有屋室 父母兄弟卧息異處 以朱丹塗其身體 如中國用粉也 食飲用籩豆 手食

 

 

魏志倭人伝 貫頭衣 日本歴史の文明を後退させた学者(親鴨)の刷り込みで、(小鴨)の歴史愛好家が、その解釈を疑わない愚かなこと。

今から2000年以上も前の秦の始皇帝や、諸葛孔明らが活躍した三国時代、古代中国の人口は2000万人。古代中国の最盛期といわれる唐王朝時代でも、人口は5000万人。

陳寿は2000万人から選ばれた逸材。西晋に仕えた。司馬炎武帝)にその才能を買われて、三国志を編纂、頭脳明晰な陳寿が記述した史記を日本の浅知恵学者、研究者が薄っぺらな誤訳で論争すること自体がおかしい。

 

魏志倭人伝の後半記述はますます難解になります、五経文法、積算、格言、論語の意味が一字一句の漢字に隠されています、叉、(表音仮名・借字)には漢音・呉音・表外音で構成されています。

【 14 】

其風俗不淫男子皆露紒以木緜招頭其衣横幅但結束相連略無縫婦人被髪屈紒作衣如單被穿其中央貫頭衣之。

【 15 】

種禾稻紵麻蠶桑緝績出細紵縑緜其地無牛馬虎豹羊鵲兵用矛盾木弓木弓短下長上竹箭或鐵鏃或骨鏃所有無與儋耳朱崖同。

<注釈>

関連記述のため、下記を一緒にしました。

  • 原文及び通説は文節と文節に空白(スペース)を設けていますが、熟語が構成できないので漢字と漢字を詰めています。

 

魏志倭人伝 解読 14 】

<注釈>

臨戦態勢の記述。伊都國、奴國、不彌國、那國の自衛防衛軍の訓練を検視した様子の記述で、男子、婦人が一丸となった状態で一糸乱れず軍事演習している様子に魏国の遣使も驚き隠さない記述です、見下した記載はありません。

今までと異なり、むしろ敬意を表した記述になっています。

伊都國、奴國、不彌國、那國の自衛防衛軍10万人の軍事訓練

<注釈・解読>

其風俗(表音仮名・借字)=其=き=その。其風=きふ=帰付=つき従うこと。風俗=ふぞく=身なり。容姿。態度。(注 風俗=ふぞく=付属=付き従っていること。)

不淫男子皆(表音仮名・借字)=不=ぶ=部。不淫=ふいん=訃音(ふいん)=黙っていること。無言。男子=だんし。皆=かい=皆=みな。

 

(皆)露(表音仮名(借字)=(皆)露=かいろ=薤露=《薤 (にら) の葉の上に置く露は消えやすいところから》人の世のはかないことや、人の死を悲しむ涙をいう語。また、漢の田横の門人が師の死を悲しんだ歌の中にこの語があったことから、葬送のときにうたう挽歌 (ばんか) の意にも用いる。

紒以木緜招頭(表音仮名・借字)=紒=けい=髪を束ね。木緜=もくめん=木綿を(招頭=鉢巻)している。

解読されてこなかった史実】

貫頭衣=矢じりからの身体の防御、鎧の役目=前記述で述べた寧波船に使用する帆布のような厚手の生地と意もわれる

緜=辨(剣)=2尺2寸

緜(辨疑べんぎ=剣)=新刀辨疑=刀剣世界では辨疑の語源が不明。

 

其衣横幅但結束(表音仮名・借字)=其=き=その。衣=い=ころも。(注 横=こう=意味⇒左右)(幅=ふく=布のはば)⇒貫頭衣。但=だん=ただ。結束=けっそく=ひもや縄などで結んで束にすること。

横幅=こうふく=公覆=身を挺して誇りを貫く。(注 幅=ふく=腹=腹をくくる。)

 

結束(表音仮名・借字)=衣服や甲冑 (かっちゅう) を身に着けること。

結束(表音仮名・借字)=志を同じくする者が団結すること。

束相連略無縫(表音仮名・借字)=束相=そくそう=「塞聡」は何も聞かないように耳を塞ぐこと。相=そう=占う。相連=そうれん=葬殮=葬送儀礼。日本ではソウレン(葬殮,葬礼)とかノオクリ(野送り)ともよばれる。

(連)略無縫(表音仮名・借字)=(連)略=れんりゃく=「連盟」「連合」などの略。

(略)無縫(表音仮名・借字)=(略)=りゃく=ただ。無縫=むほう=無法=乱暴なこと。また、そのさま。

<要約>

男子の付き従う身なり態度は、皆、無言、露命である、髪を束ね木綿の鉢巻をしている、綿甲冑(苧麻のキルティング=綿襖甲=めんおうこう)の貫頭衣は紐で結び付け、辨疑を付け団結連盟することを占い、塞聡は葬送儀礼のようであるが、ただ無謀なことだ。

魏志倭人伝 解読 14 】

婦人被髪屈紒作衣如單被穿其中央貫頭衣之

<注釈>

婦人被髪屈紒=映画の時代劇等で,戦の時に奥方が頭部背後で髪を結んでいるさま。

 

<解読>

婦人被髪屈紒(表音仮名・借字)=婦人=ふじん=(戸籍がある正妻・妾)(注 本来の意味⇒髪の毛を結ばずに振り乱すこと。)屈紒=くつけい=髪を結ぶ。髪を束ねる。

作衣如單被穿=作衣=さい=作業着をまとい。如=じょ=ごとし」と読み、「~のようだ」「~のようである」の意を表す。(單=ぜん=ひとえ。裏地のない衣。)被穿=ひせん=卑賤=地位・身分が低いこと。(奴婢)

<注釈>

穿= はく。ズボンをはく。衣服を身につける。

其中央貫頭衣之=その上から貫頭衣服まとっている。

奴婢(單=一重)の作衣=奴婢が(單=一重)なら婦人は重ね着をしていた。

穿=下半身に衣類をつける=袴のような下衣と思われる。

※ 貫頭衣の下は前合わせの着物で、下半身は袴と同等の衣服。

<解読>

(穿)其中央(表音仮名・借字)=(穿)其=せんき=戦旗=戦争のときに用いる旗。其中=きちゅう=基柱=基本となる柱。中央=ちゅうおう=まんなかの位置。

 

其中央貫頭衣之(表音仮名・借字)=其中=きちゅう=貴胄=貴い家柄の人。貴族、華胄。央貫=おうかん=往還=行き来する道、道。

 

(央)貫頭衣之(表音仮名・借字)=(央)貫=おうかん=横貫=横に貫くこと。⇒貫頭衣の脇下が開いていること。

之(表音仮名・借字)=之=し=姿。

<注釈>

※ 貫頭(表音仮名・借字)=かんとう=敢闘=勇敢に戦うこと.

<解読>

頭衣(表音仮名・借字)=頭衣=とうい=擣衣=砧 (きぬた) で衣を打つこと。

<注釈 補足⇒砧のことまで詳細に説明している>

砧(きぬた)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A0%A7

厚布を棒に巻き付け、その上に織物の表を内側にして巻き付け、さらに外側を厚手の綿布で包み、これを木の台に乗せ、平均するように槌(つち)で打つのである。

上記の用法の他、装束に使う絹布などは糊がついておりこれを柔らかくし、光沢を出すために砧で打つことが行われる。こうしてできた衣を打衣といい、女房装束に用いられる。古来は単衣のすぐ上五衣の上、中古以来は順番が異なり表着のすぐ下に着られるものになる。

<要約>

婦人は頭部背後に髪を結んでいる、作衣に袴を着けているようである、卑賤は一重の作衣に袴を着けているようである、その上から貫頭衣服まとっている。

行き来する道の中央には柱に戦旗があり、婦人が勇敢に戦う姿である。

<注釈>

連=連 量(れんりょう)紙の単位=100枚

<注釈 補足⇒10萬兵の記述根拠>

※ 連の100は理論的に理解できます、では千(1000)の積数はこじつけで穿=せん   =

千(1000)と解読できます。

 

※ 陳寿の記述はそんなに単純ではありません、五経積算の加算が1000の正数にならないと、表音(仮名・借字)に導かれません。

 

 

※ 100×1000=100,000⇐(掛算を指示する文法は存在するのか?⇒魏志倭人伝史記古事記・日本書記の節文には、表音(仮名・借字)で和算(か・ひ・じょう・じょ)が存在します。

 

※ 古事記・日本書記の記述の編纂時に新たに作られた漢字(西暦700年前後)で、積算計算に使われている日本独自の積算漢字(弖⇒現代辞書の読み音・訓⇒て⇒でたらめ解読。弖⇒きゅう⇒積数⇒8(八)。氐⇒てい⇒3(三)。

※ 古事記・日本書記 歌曰の記述には基本的に存在しない、記述に存在した場合は西暦700年前後の加筆(弖・氐、踊り字、躍り字⇒々)

※ ワカタケルの剣はでたらめ。叉稲荷山古墳の中で発掘されていない、古墳の頂上の神社遺跡で発掘、解釈もでたらめ。

※ 今回は表音(仮名・借字)=淫=いん=因⇒掛算を指示。 

※ 男子・婦人・武器等の積数は別々の計算を指示しています。

1000連=100,000兵士の軍事訓練の様子。

魏国の使節もすごい観察力で検分し、記述しているのに驚きました。

魏志倭人伝 里を何が何でも距離にする学者・研究者・小説家・愛好家にはあきれ果てる。(里⇒距離×大誤訳)・面積。

著名な歴史学者・研究者ほど、自己防衛本能が働き、異論を唱えたがる現状は見苦しい。

12

其南有狗奴國 男子為王 其官有狗古智卑狗 不屬女王 自郡至女王國 萬二千餘里

 

其南有狗奴國 男子為王 其官有狗古智卑狗 不屬女王 自郡至女王國 萬二千餘里は狗奴國の領地面積

 

壬子(みずのえね、じんし)=西暦232年4月29日~5月卯日

 

<解読>

其南有狗奴國男子為王=其、南に有り、狗奴國で男子の王(注 イザナギ)が統治。

<所在地>

邪馬壹(臺)国より、南に六十里

60里×0.444km=26.4km

熊本県菊池市(邪馬壹(臺)國の國境~熊本県菊池市近郊)

其官有狗古智卑狗不屬女王=(其=その)國は官位を有し、いやしい老年の官が物事を処理している、狗奴國は(卑弥呼)女王國には不属である。

官= 1 (借字=坎日=5月の卯 (う) 。=日=にち=不明)母倉日 ※ 旧暦法でこの時代の卯の日が不明。

官= 2 官職。

狗古=いやしい老年。

卑=卑弥呼の略。

自郡至女王國 萬二千餘里=自らの女王國の郡をおき、國の領土は一萬二千餘里。

萬二千餘里=自郡至女王國の領土面積。距離ではありません。

餘=実測検分測量をしていないので、餘を記述する。

 

<注釈>

この一章節は批判的な記述とります、イザナギの統治する國で狗奴國の女王國。

積数、一萬二千里=大牟田市の北側を除く。(堂面川以南)大牟田市(面積、81.45km2-18.80km2)+荒尾市(面積、53.37km2)を合わせた面積(郡は別)=120.00km2

 

※ 東京都の場合は大田区・世田谷区を合わせた面積と同等。

 

<狗奴國の軍隊兵員数>

積数、十六萬兵(160,000兵)

 

陳寿の記述で実測距離は経典(四書五経)の漢文(借字)特殊文法活用で実測距離は積算算出して表れます。(面積=露田=伊都國・奴國、不彌國・狗奴國ー領地)

1 距離

2 面積

3 兵数

 

<注釈>

陳寿の記述で(餘)の使い方。

倭國に魏國の遣使として赴任するまでの行程距離に関しては□□□餘里、面積(露田)の実測値⇒□□□里⇐面積。

又南渡一海 千餘里 名日瀚海 至一大國 官亦日卑狗 副日卑奴母離 方可三百里 多竹木叢林 有三千許家 差有田地 耕田猶不足食 亦南北市糴

※ 例外⇒方可三百里⇒島の海岸線長を実測しているので距離でも餘は記述していません。

※ 一萬二千餘里。⇒実測していない。 

※  自郡 

<説明>

ぐんけん‐せいど【郡県制度】

中国の中央集権的な地方行政制度。全国を皇帝の直轄地として郡・県(時代によって名称は異なる)に分け、中央から役人を派遣して治めさせたもの。春秋時代に萌芽が見られ、紀元前二二一年、秦の始皇帝が全国的に施行。のち二千年にわたり行なわれた。

 

<要約>

その南60里に狗奴國が有、男子(為=統治する。)王、その國の官職は卑しい老年で、卑弥呼女王國には不属。自群の女王國の領地は一萬二千餘里。

 

陳寿の記述により魏志倭人伝が編纂され、序章としてイザナギスサノオの批判が始まります。>

※ 第一弾がその國の官職は卑しい老年で、卑弥呼女王國には不属。後半記述は強烈な批判になります。

※ これが古事記・日本書記の編纂時に問題となり、削除される要因になりました、(氣長足尊 神功皇后記)に三文節記載されていますが、

古事記の序文に直接中国とは名指しで説明していませんが、批判の多い史記は記述しないと書かれています。この記述部分は、すべての学者が解読できていません。

 

※ 古来より、時の政権に都合の悪い史記は記述から削除されていると思われます。

 

<事例>

浅知恵学者の解読例と異なる正しい解読。

<解読>

隋書/卷81

倭國

派遣第一回 開皇20年(600年)

開皇二十年、倭王姓阿每字多利思比孤號阿輩雞彌遣使詣闕。

倭王姓阿每字(表音仮名/借字)=倭王=わおう=倭國の王。姓阿=せいあ=井蛙=井戸の中にいるカエル。見識の狭いこと。每字=まいし=昧死=死をかえりみず、あえて申しあげること。中国で古来、上奏文に用いられる語。

多利思北孤(表音仮名/借字)=多=た=多くの。利=り=吏。思=し=之。北孤=はいこ=這子=幼児の這い歩く姿をかたどった人形。

孤號阿輩(表音仮名/借字)=孤號=ここう=股肱=「股肱」で手足の意》主君の手足となって働く。阿=あ=おもねる。こびる。へつらう。輩=はい=やから。ともがら。仲間。同類。群れ。

雞彌遣使詣闕(表音仮名/借字)=雞=けい=鶏。彌=み=見=みる。みえる。遣使=けんし。詣=けい=いたる。おとずれる。ゆく。到着する。闕=けつ=宮殿。宮城。天子のいる所。

 

隋書/卷81 参照

https://zh.wikisource.org/wiki/%E9%9A%8B%E6%9B%B8/%E5%8D%B781?uselang=ja

12↑ 多利思比孤 「比」原作「北」,據北史倭國傳、通典一八五、通鑑大業四年改。下同。

※ 比=ひ=解読できません。

<通説>

「俀王姓阿毎字多利思北孤 號阿輩雞彌」とあり、姓は阿毎、字は多利思北孤、号は阿輩雞彌という

姓は阿毎(あめ)、(毎=まい・ばい)としか音読みしない、めとは読まない。字は多利思比孤(たりしひこ)。

※ 解読できないと、王の名前・官職等にこじつける通説を納得しているのか疑問を呈す。

 

<要約>

倭國の王は井の中の蛙である、多くの吏は幼児のように這いつくばる人形のようである。

倭國の王に手足となって働きへつらうやからは、鶏に見える遣使が宮殿に到着する。

 

※ 日本書記から第一回の遣隋使の記述を抹消。

※ 奈良時代の初期までは五経文法を解読できたが、それ以後は消滅のため解読不可。

 

<通説による刷り込みに毒されている閲覧者の皆様へ>

伊勢王(いせおう)⇒どこの王なのか、永遠に探しつづけるのもいいかもしれない。辞書では?-? 飛鳥(あすか)時代の官吏。

 

<解読>

伊勢王表音仮名(借字)プラス再音読文字=伊勢=いせい=為政=政治を行うこと。勢王=せいおう=聖王=徳があり立派な政治を行う王・君主を意味する。

伊勢王の次にくる漢字(王薨=おうこう=王公。薨=皇族または三位以上の貴族の死去をいう語。)誄=るい=日本古代以来、貴人の死を哀悼し、生前の功績・徳行をたとえ、

追憶する弔辞。 誄詞(るいじ)とも呼ばれる。 大王(天皇)には殯宮で奏され、功臣の棺前にも賜ったものである。

與=よ=あたえる。(王大=おうだい=王代=帝王が治めている時代。

※ 何時の世も同じである。

 

邪馬台国は幾内、奈良だと論じる学者、研究者、叉、四国と言い張る研究者はこの羅列した国々はどこにあるのか?

<注釈>

西晋が古代からの習わしで、前朝廷の魏國の記述を正史として陳寿が記述したものである。

浅知恵学者、研究者、小説家も含めたんなる紀行文的に捉えでたらめ論法をとなえている方がおかしい。

ここまでの記述が魏志倭人伝の前編部分と陳寿は捉えています。

魏國が属國に対して厳密に倭国の財政に関わる露田を調査した結果報告書になります、西晋の敵対國に解読できないように五経文法を駆使しています。

※ 読者の方はご自分の銀行口座のパスワードを気軽に開示しますか。

 

邪馬壹(臺)國の国税調査報告書

 

自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳

自女王國以北其戸數道里可得略載其餘旁國遠絶不可得詳=邪馬壹国(卑弥呼女王國以北)自らの帳簿に偽りは無く、得ている戸数、田んぼの面積に於いても同じである。

其、(この)國は広く遠くは途切れているので詳しくは不明。

次有斯馬國 次有巳百支國 次有伊邪國 次有都支國 次有彌奴國 次有好古都國 次有不呼國 次有姐奴國 次有對蘇國 次有蘇奴國 次有呼邑國 次有華奴蘇奴國 次有鬼國 次有為吾國 次有鬼奴國 次有邪馬國 次有躬臣國 次有巴利國 次有支惟國 次有烏奴國 次有奴國  

<注釈>

百里=二十一國、文字数=107文字、大きい積数なので国々と文字数が多い。PC言語と同様にお考えください。五経文法

此女王境界所盡=此=し=この女王國の境界(注 1すべて出しきる。=所在は終わる。)(注 2 所盡=おおよその数量をあらわす、すべて出しきる=書き記す。)(注 3 所盡(仮借)=書人) 

露田(田んぼ)の面積=七百里 検分実測報告面積でこれに収穫量を考慮して税を徴収できます。

<注釈>

邪馬壹国の属國(韓國・百済新羅

遠絶=邪馬壹国の領土(北は現在のソウル、百済新羅対馬海峡を隔て現=九州)

この一章節は魏国の検使による国税調査報告書になります。

羅列された多くの國名は漢文特殊文法による積数表示の漢文で國名を仮借しています。

邪馬壹国の属國としての立ち位置は厳しいものを感じられます。

 

<邪馬壹(臺)國 前編 総論>

魏志倭人伝を記述した陳寿は冥界で嘆き悲しんでいると確信できます、倭国(現在の日本)で大罪的な誤訳が通説で論争されています。

広い世の中で魏志倭人伝の解読研究されている方で公開デイベートされる大学教授、研究者はおられませんか?

Googleで検索すると、邪馬台国、約600万件・魏志倭人伝、100万件がヒットします、何かしらの解釈に関係していると思われます。

魏志倭人伝邪馬台国の誤解釈は間違った古代日本歴史論を植え付けて、まるで天動説のようである。

 

<邪馬壹(臺)國 後編 概略>

イザナギスサノオを痛烈に批判して節がかなり記述されています、これでは古事記、日本書記の編纂時に記述できません。

古事記、日本書記、万葉集も大罪的な誤訳が通説なので仕方ありません。

先日もYouTube雄略天皇詩の講演会動画がありました、雄略天皇の時代に訓読みが無いのに訓読みを入れて解説、正解ならまだしも誤訳です。

 

邪馬壹(臺)國の生活の様子、狗奴國との戦の準備、戦闘衣の刺繡模様、男子の戦闘衣、婦人の戦闘衣、奴婢の戦闘衣。

邪馬壹(臺)國は負け戦になりと論じています。

 

種禾稻紵麻 蠶桑 緝績出細紵縑緜 其地無牛馬虎豹羊鵲 兵用矛盾木弓 木弓短下長上 竹箭或鐵鏃或骨鏃 所有無與儋耳朱崖同

 

儋耳郡(たんじ-ぐん)⇒せんじぐん⇒陳寿はせんじと表音を支持しています、五経文法の積算に反映できません。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8F%A0%E5%B4%96%E9%83%A1

儋=表音読み=たん・せん・だん

儋耳郡(せんじ-ぐん)

<その後の解読で詳細解読は示しますが、簡易要約>

節文要約=麻より強靭繊維の紵=からむし繊維を麻とキルティングにした貫頭衣で矢に当たった場合の鎧で防矢衣で牛・馬・虎・豹・羊・鵲の刺繡がしてある戦闘衣を身に着けて防衛訓練をしている光景に、あまりにもあでやかなので記述しています。

※ スカジャンよりあでやかと思われます。龍の五爪は天子の象徴ですし、三爪にすれば、自ら属國と認めたことになります。

甚平 男性和服 絡繰魂 信長の虎 刺繍

https://www.sousakuzakka-koto.com/item/kuzb2019tora/

その光景が邪馬壹(臺)國(儋耳郡)VS狗奴國(朱崖⇒表音仮名・借字=珠厓郡、しゅがい-ぐん)と同じ反乱を起こし、滅亡したとの例えです。

珠崖郡(海南島

前漢南越国を滅ぼした翌年の紀元前110年(元封元年)、海南島に珠厓郡と儋耳郡が置かれた。郡が置かれてから紀元前86年(始元元年)までの間に、6回の反乱が起こった。紀元前82年(始元5年)、儋耳郡を併合した。紀元前59年(神爵3年)、珠厓3県が反乱を起こした。紀元前53年(甘露元年)、9県が反乱を起こした。紀元前48年(初元元年)、また珠厓郡が反乱を起こした。紀元前46年(初元3年)、賈捐之の提議を受けて、珠厓郡は廃止され、その地は放棄された。

 

邪馬壹(臺)國、卑弥呼から魏國に献上する品物、魏國が属國に対して強要する領地、露田、献上品の数量等

卑弥呼崩御、葬儀儀礼に参列した魏國の使者の不潔(シラミ)の様子

(事鬼道能惑衆)=鬼道を働く(能)=スサノオが民衆を扇動することで亂が収まらない。卑弥呼が鬼道(呪術)を使うと馬鹿な解釈が通説、あほらしい。

イザナギスサノオ連合が邪馬壹(臺)國に戦勝して政権が移行してからの様子。

卑弥呼の陵墓の規模、詳細寸法。

復立、壹與=通説の十三歳は浅知恵な誤訳。⇒この節文は十三國の王が同意した。

 

ちなみに!

卑弥呼卑弥呼遺諡(おくりな)=大照

五経解読で表れます。

 

<同様の表音仮名(借字)の五経文法の積数で構成された節文が古事記、日本書記に神代記~歴代天皇天武天皇記・下)まで存在します。>

※ でたらめ解読により神話になってしまった。

 

※ キーワード⇒生御子・生□□□□と記述されているのは生きている前皇后・妃・高子・皇女・婦人・夫人の前に(生)が記述されています。

これは政権を受け継ぎ何等か功労功績で戸主(夫)が亡くなり(戦争)天皇に近い血筋の濃い血族を払い下げ、養子・養女に送り出す場(宴)の記述です。

※ 生まれたと解釈しているのはでたらめ。

※ 事例⇒天武天皇記⇒生高市高子(注釈、要約⇒次納胸形君德善女尼子娘、生高市皇子命。)は通説=納胸形君德善女尼子娘は母はでたらめです。

※ 次納胸形君德善女尼子娘=養子に出すときの出自で同じ母から双子で生まれ、長兄で命名天武天皇。 

※ 事例⇒天武天皇記⇒額田王天武天皇との間に子供がないので(いとま)を言い渡されて養女の十市皇女と養母・養女の引き取り。再婚先⇒内大臣藤原⇒藤原朝臣大嶋

※ 額田王の影の権勢は温存されていました。

 

魏志倭人伝から古事記、日本書記へ移行する神武天皇及び、歴代天皇との整合性記述の検証

【制詔 親魏倭王卑弥呼】を賜る以前は邪馬壹國

<注釈>

それ以後、卑弥呼、仮政権=イザナギ、壹與、イザナギ~鸕鶿草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)~神武天皇古事記、日本書記へ記述されるが、原文は正史なので正しいいが、読下しは大罪誤訳である。

邪馬臺國=やまたいこく=臺(台)=朝廷。役所。の意味が含まれる。(注 属國ではあるが一つの國として認められた。

 

※ 日本書記にはなぜ記述が無い。氣長足尊 神功皇后の時代に魏志倭人伝を入手したが、猛烈に批判されているので編纂時に抹消。

 

※ 天武天皇の時代、唐に占領され、中国(唐)に古事記、日本書記の写本が取られる恐れがあるで、表音仮名(借字)を巧みに使い記述したのではないかと思われる。

※ 年代の相違、神武天皇欠史八代、江戸時代、明治以後、馬鹿学者が単に解読できず、歴代天皇の齢を積算して紀元前660年にしただけである。

※ 解読ヒント=(自天祖降跡以逮于今一百七十九萬二千四百七十餘。)自天祖降跡以逮于今(一百(二)七十(一)九萬(四)二千(三)四百(二)七十(一)餘。=四十三(餘=あまり)歳⇒加算

※ 歴代天皇、皇族で若くして崩御されて方の年齢は(尊)(命)を最後に諡号として付け加算、一定数のかさ上げをしています。

 

 

邪馬壹國、卑弥呼→邪馬臺國、卑弥呼→(西暦240年、仮政権=朝廷、狗奴國(伊邪那岐イザナギ)→(復立、邪馬臺國、壹與)→(政権樹立=朝廷、狗奴國(伊邪那岐イザナギ、)

祖父=火折彦火火出見尊、父=彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊、子=彦火火出見神武天皇

五経解読>

彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊=(注 諱=いみな。解読=崩御=丙申の年=西暦276年→中国、晋、武帝司馬炎(在位期間 266年2月4日 - 290年5月16日)、朝貢、時期は不明、玉刻を賜る。

 

梁書/卷54 参照>

復立卑彌呼宗女臺與爲王。其後復立男王,並受中國爵命。晉安帝時,有倭王贊。贊死,立弟彌;彌死,立子濟;濟死,立子興;興死,立弟武。(神武天皇

西暦294年、日本書記=神日本磐余天皇 神武天皇、太甲寅。自天祖降跡以逮于今一百七十九萬二千四百七十餘。四十三歳。

日本書記の神武天皇記の年代記述の最終章節→七十有六年春三月甲午朔甲辰、天皇崩于橿原宮、時年一百廿七

七十有六年春三月甲午朔甲辰=(西暦240年、仮政権=朝廷、狗奴國(伊邪那岐イザナギ)から換算して79年(約80年)、崩御=71歳

辛酉年春正月庚辰朔、天皇卽帝位於橿原宮、=(西暦301年)この年を元年として、日本足國押人天皇 孝安天皇記(通算年数=百二年春正月戊戌朔丙午、天皇崩。)まで記述。

 

※ ただし、歴代天皇の順番が入れ替わります、孝安天皇記の次代の足仲天皇 仲哀天皇(換算年数が元年春正月庚寅朔庚子、太子卽天皇位に変更)

<考察>

日本書記=氣長足尊 神功皇后記で魏志倭人伝の記述があります、通算年が仲哀天皇からの年代で計算されています、これは陳寿魏志倭人伝の写本を入手したのでは?。

古代中国の属國は自ら元号を独自につけることは許されませんが西暦240年に魏國に逆らい、仮政権=朝廷、狗奴國(伊邪那岐イザナギ)を樹立してその元号資料が神獣鏡の解読で考察。

<神獣鏡>

赤烏元年五月廿五日丙午造作明竟百錬清銅 服者君候宣子孫寿万年 

 

新唐書/卷220

倭,日本

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E5%A4%B7%E4%BC%9D

初代天皇  鸕鶿草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)

其王姓阿每氏,自言初主號天御中主,至瀲,凡三十二世,皆以「尊」爲號,居築紫城。瀲子神武立,更以「天皇」爲號,徙治大和州。

次曰綏靖,次安寧,次懿德,次孝昭,次天安,次孝靈,次孝元,次開化,次崇神,次垂仁,次景行,次成務,次仲哀。仲哀死,

以開化曾孫女神功爲王。次應神,次仁德,次履中,次反正,次允恭,次安康,次雄略,次清寧,次顯宗,次仁賢,次武烈,次繼體,次安閒,次宣化,次欽明。

欽明之十一年,→(552年=欽明天皇13年)に百済から仏像と経文が伝来する)→(551年(欽明天皇12年)→(550年=欽明天皇11年)

直梁承聖元年。→(西暦552年)

 

※ 2年のずれが生じる

 

次海達。次用明,亦曰目多利思比孤,直隋開皇末,始與中國通。次崇峻。崇峻死,欽明之孫女雄古立。次舒明,次皇極。

其俗椎髻,無冠帶,跣以行,幅巾蔽後,貴者冒錦;婦人衣純色裙,長腰襦,結髮於後。至煬帝,賜其民錦線冠,飾以金玉,文布爲衣,左右佩銀蘤長八寸,以多少明貴賤。

 

(西暦631年)

太宗貞觀五年,遣使者入朝。帝矜其遠,詔有司毋拘貢。遣新州刺史高仁表往諭,與王爭禮不平,不肯宣天子命而還。久之,更附新羅使者上書。

(西暦650年)

永徽初,其王孝德即位,改元曰白雉,獻虎魄大如斗,碼硇若五升器。時新羅爲高麗、百濟所暴,高宗賜璽書,令出兵援新羅。未幾孝德死,其子天豐財立。死,子天智立。

(西暦651年)

明年,使者與蝦蛦人偕朝。蝦蛦亦居海島中,其使者須長四尺許,珥箭於首,令人戴瓠立數十步,射無不中。天智死,子天武立。死,子總持立。

西暦651年~西暦670年)の唐の正史に記述有り。

※ 直梁承聖元年。→(西暦552年)

※ 2年のずれが生じる

※ 永徽初,(西暦651年)、明、(西暦652年)=マイナス(額田王、歌=(西暦674年)、天武天皇崩御(西暦686年=朱鳥元年) 

※ 欽明之十一年,→(552年=欽明天皇13年)に百済から仏像と経文が伝来する)→(551年(欽明天皇12年)→(550年=欽明天皇11年) 

粟田真人朝臣

※ 生年は不明。出家して道観と名乗る。白雉4年(653年)の遣唐使船に留学僧として随行し、唐で学問を修める。帰国後、還俗して朝廷に仕え、天武天皇10年(681年)小錦下(後の従五位下に相当)となる。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B2%9F%E7%94%B0%E7%9C%9F%E4%BA%BA

天智死,

※ 考察 23年間の差異が生じる。

子天武立。死,

※ 考察 23年間の差異が生じる。

※ 天武天皇15年7月20日ユリウス暦686年8月14日)に朱鳥と定められ、32年ぶりに再開された。しかし同年9月9日(ユリウス暦10月1日)に天武天皇崩御すると、以降、701年の大宝までは、元号が定められることはなかった。

 

万葉集に編集されている額田王史記天武天皇が存命されていることを検証。

甲 戊 西暦674 年

八隅知之 和期大王之 恐也 御陵奉仕流 山科乃 鏡山尓 夜者毛 夜之盡 晝者母 日之盡 哭耳呼 泣乍在而哉 百磯城乃 大宮人者 去別南

※ 粟田真人朝臣が唐より持ち帰った漏刻を天智天皇の漏刻と同様な仕様で設計建築、詳細寸法図の記述の史記額田王

※ 時の告げ方の詳細等も記述した歴史的資料である。

 

日本書記、高天原廣野天皇 持統天皇

朱鳥元年九月戊戌朔丙午、天渟中原瀛眞人天皇崩、皇后臨朝稱制。

十一月甲戌朔庚辰、賞賜送使金高訓等、各有差。甲申、奉勅始行元嘉曆與儀鳳曆。

儀鳳曆=通説 ?=西暦676年 - 西暦679年

 

新唐書/卷220

子總持立

持統天皇(じとうてんのう)

(西暦670年)

咸亨元年,遣使賀平高麗。後稍習夏音,惡倭名,更號日本。使者自言,國近日所出,以爲名。或云日本乃小國,爲倭所并,故冒其號。使者不以情,故疑焉。又妄誇其國都方數千里,南、西盡海,東、北限大山,其外即毛人云。

(西暦701年)

長安元年,其王文武立,改元曰太寶,遣朝臣真人粟田貢方物。朝臣真人者,猶唐尚書也。冠進德冠,頂有華蘤四披,紫袍帛帶。真人好學,能屬文,進止有容。武后宴之麟德殿,授司膳卿,還之。文武死,子阿用立。死,子聖武立,改元曰白龜。

(西暦713年)

開元初,粟田復朝,請從諸儒受經。詔四門助教趙玄默即鴻臚寺爲師,獻大幅布爲贄,悉賞物貿書以歸。其副朝臣仲滿慕華不肯去,易姓名曰朝衡,曆左補闕,儀王友,多所該識,久乃還。聖武死,女孝明立,改元天平勝寶。天寶十二載,朝衡復入朝。

上元 (唐粛宗) : 唐代、粛宗の治世に使用された元号(760年 - 761年)

上元中,擢左散騎常侍、安南都護。新羅梗海道,更繇明、越州朝貢。孝明死,大炊立。死,以聖武女高野爲王。死,白壁立。

(西暦780年)

建中元年,使者真人興能獻方物。真人,蓋因官而氏者也。興能善書,其紙似繭而澤,人莫識

貞元 (唐)(785年 - 805年)

貞元末,其王曰桓武,遣使者朝。其學子橘免勢、浮屠空海願留肄業,曆二十餘年。使者高階真人來請免勢等俱還,詔可。次諾樂立,次嵯峨,次浮和,次仁明。

(西暦839年)

仁明直開成四年,復入貢。次文德,次清和,次陽成。次光孝,直光元年。

(西暦640年)

貞觀十四年,其王遣子可也余莫貂皮更三譯來朝。授騎都尉,遣之。

龍朔初,有儋羅者,其王儒李都羅遣使入朝,國居新羅武州南島上,俗樸陋,衣大豕皮,夏居革屋,冬窟室。地生五穀,耕不知用牛,以鐵齒杷土。初附百濟。麟德中,酋長來朝,從帝至太山。後附新羅

(西暦723年)

開元十一年,又有達末婁、達妒二部首領朝貢。達末婁自言北扶餘之裔,高麗滅其國,遺人度那河,因居之,或曰他漏河,東北流入黑水。達姤,室韋種也,在那河陰,凍末河之東,西接黃頭室韋,東北距達末婁云。

 

<解読>

(西暦670年)

咸亨元年,遣使賀平高麗。後稍習夏音,惡倭名,更號日本。使者自言,國近日所出,以爲名。或云日本乃小國,爲倭所并,故冒其號。使者不以情,故疑焉。又妄誇其國都方數千里,南、西盡海,東、北限大山,其外即毛人云。

 

咸亨元年,遣使賀平高麗。後稍習夏音,惡倭名,更號日本。使者自言,國近日所出,以爲名。

<解読>

倭國

咸亨元年,(西暦670年),

遣使賀平高麗=賀=が=よろこぶ。祝う。平(表音仮名)=へい=並。高麗=こうれい。

後稍習夏,更號日本=後稍(表音仮名)=そうしゅう=早秋=秋の初め。ようやく。次第に。だんだんと。少しずつ。初秋。習夏(表音仮名)=しゅうか=終(夏=たより。おとずれ。知らせ。)

音惡倭名=音=いん=中国から伝来した漢字の発音。また、その読み方。惡倭名=あくわめい。

更號日本。使者自言,國近日所出,以爲名。=更=こう=あらためる。かえる。とりかえる。新しいものにする。號=こ=名づける。称する。

 

日本=にちほん

使者自言=ししゃじごん。

國近日所出=國=こく=(倭國)。近=きん=ちかい。時間的・距離的にちかい。日=じつ=ひ。太陽。太陽の光。ひる。ひるま。太陽のでている間。所=しょ=ところ。場所。所在。出=すい=あらわれる。うまれる。うみだす。

以爲名=以=い=もちいる。使う。使用する。爲=い=おさめる。まとめる。統治する。名=めい=なのる。なづける。例:命名(めいめい)

 

咸亨元年,遣使賀平高麗。後稍習夏音,惡倭名,更號日本。使者自言,國近日所出,以爲名。

<要約 1 >

咸亨元年遣使賀平高麗(表音仮名)=かんこう=咸亨元年,(西暦670年)。倭國遣使並びに高麗遣使が喜びを祝いに朝貢

後の早秋の終夏の訪れの時期、音悪(いんあく)なので倭銘を新たに名づけました、日本と使者は自ら唱えた。

日本國は太陽の日が近く出るところで、これをもって、治める名にいたします。

 

或云日本乃小國,爲倭所并,故冒其號。使者不以情,故疑焉。

<解読>

或云日本乃小國爲倭所并=或=わく=ある。ある~。とある。不特定の物事を指すことば。ある。あること。存在する。日本。乃=だい=すなわち。そこで。そういう理由で。つまり。小國

爲倭所并=爲=い=おさめる。まとめる。統治する。倭=わ=倭國。所=しょ=ところ。場所。所在。并=へい=あわせる。あわす。一つにする。

故冒其號使者不以情故疑焉=故冒(表音仮名)=こもう=虚妄=うそ。いつわり。虚偽。きょもう。其號=きこう=紀綱=「紀」は細い綱、「綱」は太い綱》国家を治める上で根本となる制度や規則。綱紀。

(號)使(表音仮名)=こうし=公使=国家を代表して外国に駐在し、外交事務を取り扱う職務。また、その人。大使に次ぐものとされ、普通は特命全権公使をいう。

(號)=こう=名づける。称する。(公使)者=特定の人やものを指し示すことば。

<注釈>

以下の部分の五経文法は緻密である。

<解読>

不以情故疑焉=不=ふ=「~しない」「~でない」の意を表す。以=い=もちいる。使う。使用する。

以=い=もちいる。使う。使用する。→日本國名

以情(表音仮名)=いせい=(注 1 為政=政治を行うこと。)(注 2 威勢=人を恐れ従わせる力。「権力者の威勢に恐れをなす」

故疑(表音仮名)=こぎ=狐疑=ある事に臨み、うたがってためらうこと。

焉=えん=「いずくんぞ」と読み、「どうして・・・か」の意。文末につけて、語調をととのえる助字。

疑焉(表音仮名)=ぎえん=魏延

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AD%8F%E5%BB%B6

 

※ 魏延の兵は皆魏延が悪いことを知っていたため命令を聞かず四散してしまい、やむを得ず北へ向かって逃走。結局、追いつかれた馬岱によって斬り殺された。

 

<要約 2 >

焉⇒「いずくんぞ」と読み、「どうして・・・か」の意。文末につけて、語調をととのえる助字。章節の全文に掛かる。

つまり、日本は小国ということか、?治める九州を合わせて一つにするということか、もともとが虚妄(こもう)、紀綱の公使者か。

 

又妄誇其國都方數千里,南、西盡海,東、北限大山,其外即毛人云。

<表音仮名解読>

又妄誇=又(表音仮名)=邑。ゆう=また。さらに。そのうえ。妄=ぼう=みだり。うそ。いつわり。でたらめ。道理に合わないこと。誇=こ=ほこる。いばる。自慢する。

又妄誇=又(表音仮名)=邑。ゆう=また。さらに。そのうえ。妄=ぼう=みだり。うそ。いつわり。でたらめ。道理に合わないこと。誇=こ=ほこる。いばる。自慢する。

(誇)其國=(誇)其(表音仮名)=こき=古記=ふるい記録。旧記。其國(表音仮名)=きこく=貴国=相手の国を敬っていう語。

都方數千里=都=と=みやこ。數=そく=(いくらか。いくつかの。数=すう。)千里=せんり。

數(表音仮名)=(そく・す・すう・さく・しゅ)=数・州

※ 約千里=(注 唐時代の1里=0.56km×1000里=560km(福岡県大宰府市~神戸~京都府630km、国道2号線Google) 直線距離=約530km

千(表音仮名)=せん=銭。里(表音仮名)=り=厘・離=はなれる。

南西盡海=南西=だんさい=南西は方角を示す。西南は土地を示す。盡=じん=つきる。つくす。おわる。海=かい。

東北限大山=東北=とうほく=東北は、土地を示す。北東は方角を示す。限=げん=かぎる。区切る。範囲をきめる。大山=だいさん。

其外即毛人云=其=き=その。それ。人や物事を指ししめす。即=そく=つく。近づく。くっつく。毛人=もうじん=蝦夷(えみし、えびす、えぞ)。

云=うん=いう。声に出していう。他を引用していう。

 

<注釈>

この記述の時期は、白村江の戦いに敗れ、唐の占領軍(GHQ)通説では二千人、解読確認では三千人が九州に進駐して占領下におかれた状況で唐の本国の記述で遣唐使との記述となります。

 

<表音仮名要約>

叉、嘘、いつわりを述べて、道理に合わないことをしないように、古記の古い記録にある、貴国が遷都する邑=領地は東に約1000里。

その領地はことごとく海で、東北は大山、その外は毛人=蝦夷と言っている。

 

<注釈>

自身、記述していて、この要約では納得がいかない、どこの部分がおかしいか、わかるでしょうか。

(東に約1000里。)、東はどこの漢字史記から引用しているのか、千里から六文字後の東を千里の前にもってくるような、いい加減な文法ではありません。

回答=都方(表音活用仮名)=都方=とほう=兔=と=卯方位=うほう→東方數千里。

叉、漢字字数を増やして熟語を創作したり、解釈できない漢字を飛ばしたりはできません。こじつけ表音仮名も禁止です。

 

表音読みの順番を変更すると、本来の深層の意味熟語に支障をきたし、解読できません。

 

<表音仮名、深層=ディープランニング要約 3 >

叉、嘘、いつわりを述べて、道理に合わないことをしないように、古記の古い記録にあるように属國である、徒法、正しい法則を断裁しないように取り上げるが、その回答は(佩韋佩弦)を厳守。(貴国は帰国)して、遷都する邑=領地は東方に約1000里。

 

題簽(記録書の題字を付け)書き記している。

其外即毛人云=その外即(表音仮名)=がいそく=手の届かない遠い所へ、毛人(表音仮名)=もうじん=蒙塵かと、問う。

蒙塵=もうじん=「春秋左伝」僖公二十四年から。天子が行幸するときは道を清めてから行くが、変事の際はその余裕がなく、頭から塵 (ちり) をかぶる意》天子が、変事のために難を避けて、都から逃げ出すこと。みやこおち。

 

<まとめ>

魏志倭人伝古事記、日本書記を解読して判明したことは古事記、日本書記は時の政権に都合の悪い魏志倭人伝の記述は歴史からは削除。

だからと言って古事記、日本書記がでたらめかというと、史実が記述されています、江戸時代から延々とつづく大罪誤訳により、史実が捻じ曲げられています。

邪馬壹(臺)國の所在地は九州福岡県八女市、近郊で那國の血族宗家と狗奴國の血族分家の延々とつづく政権抗争、那國宗家の血族の雄略天皇が中興の祖ですが、男系血族が途絶えます。

古代の漢時代(後漢の皇帝血族も前漢で途絶え6~7代の遠遠血族で再興、これに見習い、継体天皇を即位させ出自は越後だはありません、越州(浙江省紹興)

邪馬壹(臺)國以前より多くの倭人自治していました、越州朝貢が証です。

 

<自説を結論づけるための推察>

そもそも、那國の血族と狗奴國の血族が争うのか、双方とも、我らの血族が宗家で正しいと主張していると思われる。

※ 史記で解読できるのか?⇒伊都國(陳寿の記述でも見下した國名ではない。)イザナギ伊邪那岐、伊と那國の漢字が使われている、(伊)にこだわっていると推察。

※ 天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命古事記』・彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊 『日本書紀』、古事記では(建)は那國の宗家の血族?、

※ (諱・諡)を解読⇒要約⇒丙 申 西暦276に 年司馬 炎(しば えん)に朝貢、伊尹が祖である、?⇒まゆつば、何かの間違い。五経文法の間違い、?

※ 殷本紀 伊尹名阿衡。阿衡欲奸湯而無由,乃為有莘氏  媵臣,負鼎俎,以滋味湯,致于王道。  

※ 通説の読下しh料理の誤訳。

※ 解読すると殷の宰相の公労で400町歩の土地を賜った、東の夷(倭)國から来、(乃・能)が現れましたので、以前は日本神話に登場する(乃=地神・能=弁神)がなぜ土地の神なのか理由が不明。

※ ようやく納得できました。那國の血族と狗奴國の血族も源流は同じ祖の伊尹と結論づけました。

新唐書/卷220と年代の相違が見られますが大した問題ではありません、史記を解読できない学者、研究者が欠史八代だのの論法を唱えますが、周~漢~魏~唐の政権は属國に対して、甘くはありません。

重い税を倭国の歴代政権に要求しています、逃れられますか延々と朝貢しているということは税を納めているということです。

白村江の戦いに敗れ、敗戦、九州政権の占領、大東亜戦争の敗戦(GHQ)よりきつい状況で東大地震震災と同等の大地震が九州を襲い都が壊滅状態で、唐の占領、3度の天変地異、遷都は自然の成り行きです、壬申の乱の平定後西暦672年に遷都、場所は京都ですが持統天皇の時奈良に遷都。

 

※ 遷都してから九州で付けた名称と同一名称にしただけです。

 

<疑問が湧いてきます、簡単に遷都ができるのか?>

古代中国の漢に習い、羈縻政策(きびせいさく)を歴代の天皇により平定してきたと思われる。その後、基盤となる五畿七道(ごきしちどう)には諸説あるが同等の政令は存在したのではないか。

羈縻政策(きびせいさく)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%88%E7%B8%BB%E6%94%BF%E7%AD%96

五畿七道(ごきしちどう)

古代日本の律令制における、広域地方行政区画である。畿内七道(きないしちどう)とも呼ばれた。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E7%95%BF%E4%B8%83%E9%81%93

 

<複都制>

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A4%87%E9%83%BD%E5%88%B6

中国の複都制は都市国家時代の周に始まる。渭水流域の盆地である関中に起こった周は東方の華北平原諸国の盟主であった商(殷)を滅ぼすと、東方諸国を支配する拠点としてこの平原への出口である洛水流域の要衝に洛陽を建設して、後の長安の前身となる関中の鎬京と洛陽の二つの拠点から臣従する都市国家諸侯に盟主として臨んだ。

 

※ 次回、(新唐書/卷220、⇒(西暦651年)天智死,子天武立。死,子總持立。(西暦670年)唐が倭國に対して疑念を抱く記述、それに対して倭國(日本)の対応記述。

※ 日本書記、天武天皇記上の記述と35年間のずれがある。

※ 漢に見習い、複都制を立案画策、近江京(都)弘文天皇 (大友皇子)。倭京(都)天武天皇。すべて唐の占領から逃れ、600年余りの属國から独立国に歩み出すため。天武天皇、入東國、壬申の乱で勝利。

※ 次回解読

是月、朴井連雄君、奏天皇曰「臣、以有私事、獨至美濃。時、朝庭宣美濃・尾張兩國司曰、爲造山陵、豫差定人夫。則人別令執兵。臣以爲、非爲山陵必有事矣、若不早避當有危歟。」或有人奏曰「自近江京至于倭京、處々置候。亦命菟道守橋者、遮皇大弟宮舍人運私粮事。」天皇惡之、因令問察、以知事已實。於是詔曰「朕、所以讓位遁世者、獨治病全身永終百年。然今不獲已應承禍、何默亡身耶。」

 

※ 誤訳の通説読下しとは異なります。

 

 

10 南至邪馬壹國 女王之所都は福岡県八女市が卑弥呼女王國の中心部。

南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月 官有伊支馬 次日彌馬升 次日彌馬獲支 次日奴佳鞮 可七萬餘戸

 

<邪馬壹國への到着日と歓迎行事日>

壬子(みずのえね、じんし)=西暦232年4月29日~5月4日

4 月 29 日 邪馬壹國、到着日

 

<注釈>

東洋の太陰太陽暦では月の日数である大小(大月30日、小月29日)が年により異なるため、4月29日までで4月30日は存在しない年もある。

 

5 月 1 日 官有伊支馬、2 日 次日彌馬升、3 日 次日彌馬獲支、4 日 次日奴佳鞮。

 

<邪馬壹國の所在地>

北側は筑後市九州新幹線の東側、(現)八女市みやま市大牟田市の北側。(堂面川以北)

金、銀鉱山=星野鉱山(八女市)が存在した。

※投馬國の役割が都護府とすると大牟田市の北側は狗奴國と隣接しているので、投馬國の領地と想定する。

※邪馬壹國は自衛防衛軍兵で防御すると考えると、邪馬壹國の領地

 

南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月 官有伊支馬 次日彌馬升 次日彌馬獲支 次日奴佳鞮 可七萬餘戸

 

<解読>

南至邪馬壹國女王之所都水行十日陸行一月官有=南に至ると邪馬壹國で卑弥呼女王の所都有、水行10日、陸行一ケ月間。

<注釈>

前節の投馬國の(水行(借字)二十日=遂行二十日、国税調査機関)、(水行十日、陸行一月=魏國、都=洛陽~狗邪韓國~邪馬壹國までの行程期間の記述。

今までの通説読み下しは、五経文法が理解できないのでチンプンカンプンになり、大罪誤訳となる。

<注釈>

伊支馬=(狗奴國王=イザナギ)が馬術を披露、卑弥呼女王の血縁、叔父?。卑弥呼亡き後、(禅譲=帝王がその位を世襲せず、有徳者に譲ること。)迫り、イザナギ人間性を魏国の検使に問われています。

イザナギ倭国を自分の政権打ち立てようと、大戦を引き起こします、記述は後にします。

 

<注釈>

(狗奴國王=イザナギ)が馬術を披露、疑問を抱きませんか、次の次の記述の一章節で狗奴國は卑弥呼女王國に属さないと記載されています。

(狗奴國王=イザナギ)が魏國の使節団の歓迎の宴に馬術を披露をしています、邪馬壹(臺)國(那國)と対等’同等)と考えていたと思われます。

制詔 親魏倭王卑弥呼を正式に授与されていないことと、魏國に威厳を示すためですが、魏國の使者に嫌われます。

 

<解読>

有伊支馬 次日彌馬升 次日彌馬獲支 次日奴佳鞮 可七萬餘戸

初日、イザナギによる馬術披露、

有伊支馬=(注 1 有=ゆう=しめす、伊=い=イザナギの略字、支(借字)=し=差=し、(差馬=差し馬=馬術

 

次、2日目、馬頭琴、笙による演奏宴会、次日彌馬升=(注 2 次日=次日=次に日、彌=び=A意味=ひさしい。B(借字)美=び=うつくしい=美女による、馬=馬琴、升(借字)笙=ふえ。しょうのふえ。管楽器の一つ。 雅楽

中国の伝統音楽・楽器 【図説】

http://chugokugo-script.net/chugoku-bunka/ongaku-gakki.html

三国・魏・晋・南北朝時代の音楽

魏志倭人伝古事記、日本書記をまともに解読できないことで、おかしな歴史論法になる。

日本には奈良時代ごろに雅楽とともに伝わってきたと考えられている。

 

次、3日目、次日彌馬獲支=(注 3次日=次日=次に日、彌=び=A意味=ひさしい。B(借字)美=び=うつくしい、馬で、獲支(借字)=かくし=獲之=鳥獣を捕らえる。=猟にゆく。 

 

次、4日目、次日奴佳鞮可=(注 4 次日=次日=次に日、奴=妓生 (きしょう)(佳=顔かたちが美しい。よい。美しい。立派。すぐれている。すばらしい。(鞮=鞮鼓の舞い)可=よい。よろしい。 

<注釈>

鼗鼓(とうこ、ふりつづみ)は、雅楽に使われる打楽器の一つです。

『文献通考』には、鼗として、麻・鞞・鞮とあり、料として鞀があり、同類の楽器のようです。

http://houteki.blog106.fc2.com/blog-entry-2595.html

<注釈>

妓女(ぎじょ)は、中国における遊女もしくは芸妓のこと[1]。娼妓、娼女という呼称もある[2]。歌や舞、数々の技芸で人々を喜ばせ、時には宴席の接待を取り持つこともあった。娼婦を指すこともある。

 

YouTube 動画参照>

黃真伊--ファンジニ

https://www.youtube.com/watch?v=ffk37mnfmI0&list=RD9BSpIvRiLHA&index=2

Hwang Jin-Yi

https://www.youtube.com/watch?v=4pOdvR6jaiM

 

<日本の古代史の大罪誤訳、すべての漢文史記も同様です。>

南すると邪馬台国(邪馬壹国)に至る。女王が都する所である。水行10日、陸行1月。官は伊支馬(いきま)が有る。

次いで弥馬升(みましょう)という。次いで弥馬獲支(みまかくき)という。次いで奴佳鞮(なかてい)という。推計7万余戸である。

浅知恵な歴史大学教授、研究者、講演会で勝手な論法を講演している研究者はこの程度調べてみてはいかがですか。

史記漢文の区切り(スペース区分の間違い。次日奴佳鞮 可七萬餘戸=次日奴佳鞮(区切り)可七萬餘戸⇒次日奴佳鞮可 七萬餘戸=次日奴佳鞮可(区切り)七萬餘戸。

原文には無い区切り、スペスを勝手に入れ通説解読しているので、正しい解読ができない。

 

<注釈>

A 七萬餘戸=戸主で人口数ではありません。戸主(男夫)=1人・婦人(多妻=1人~2人)・子供(2人)・奴婢(下僕、侍女、2人)=合計人数 6人

 

B 七萬餘戸=戸主で人口数ではありません。戸主(男夫)=1人・婦人(多妻=2人~3人)・子供(2人)・奴婢(下僕、侍女2人)=合計人数 8人

 

※ 邪馬壹國の人口は40萬人~56萬人、ブログ閲覧してくださる読者様も考えてみてください。食の観点から広大な露田(田んぼ)耕作地が無いと居住できません。 

※ 現在の地域では九州、筑紫平野、3世紀の奈良(幾内)では耕作面積が少なくむずかしい。離れた地域では関東平野

※ 寒冷地域で農耕できる品種米は3世紀(古代)にはありません。

※ 古代中国の魏國(黄河流域)は寒冷なので稲作ができないので倭國(邪馬壹國)属國から税として難升米(借字)なんしょうまい=南春米=なんしょうまい。を治めさせた。

春米=しょうまいPC辞書で検索してください。

※ 古代中国の南部(揚子江流域)は稲作をしていましたが、東シナ海の運搬は困難で揚子江黄河までの運河が完成して米の運搬が可能。

 

<まとめ、総合検証>

邪馬壹國の露田面積=七百里(700町歩=7000反(収穫量=現在は平均=7俵(玄米60kg×7俵)、古代の収穫量を6俵で計算すると42萬俵となります。

邪馬壹國の戸主の戸数を考慮して想定計算をする必要があります、、叉、計算上で3分類に分けてみました。

A 邪馬壹國(對海國、 一大國、 末慮國=自給自足國=8000戸主)

B 邪馬壹國(投馬國=20000戸主=邪馬壹國の都護をするために8州又は十三國で賄う。)都護府徳川時代の江戸詰めで江戸屋敷を築いて防護を行う行政と同じ仕組み。

C 邪馬壹國(伊都國、 奴国、 不彌國 、 邪馬壹國=那國=92000戸主)※ 奴國=奴婢を優遇しないと、反乱を起こすおそれがありますので、ここの分類に入れました。

※ 中国,漢の地方統治制度。前漢の高祖は初め一族や功臣を諸侯王国に封じて,封建制と郡県制と併用したが,これを郡国制という。

※ 邪馬壹國=那國も統治制度として、郡国制を実施して刺史(官大夫、大夫を派遣、率=3200兵、裨将=1600兵、校尉=800兵、)したのではないかと想定。

※ 上記のように想定しないと、米の収穫自給量では不足する、叉、邪馬壹國の属國、羈縻政策(きびせいさく)=吉備國から税(米)徴収を行ったと思われる。同様の政策が魏國から強要されている。

 

<邪馬壹國・邪馬臺國の記述名称の表音読み論争>

【実に馬鹿げている】

陳寿東夷伝魏志倭人伝)に記述した邪馬壹國=やまいちこく。(注 1 やまいこく、ブー、でたらめ表音読み、いと表音読みをすると五経解読が成立しません。)

 

五経表表音仮名の解読のヒント>

【事例】

音声認識(表内表音=+番号認識+積算算術で解読前提にたどりつきます。

New YORK,史 Goole Around 100里東京離旅乗人本社到→(通説の読下し=ニュウダブリュ、ヨーク、ゴオオレイ、これでは、音声認識ができません。

 

多くの学者、研究者の解釈は東京を離れニューヨークの本社まで100里、旅に乗人で到るとなります。

一般社会の報告書でも通用しません、ましてや正史ですよ。

 

【ニューヨーク・グーグル】と読下しすると、積数が表れ、加算すると100(里=表音仮名=離)

積算 1 が距離=100里で仮名表音が正しいことが証明されます。

積算 2 が実測距離の解読=ローマ字の大文字のみ積算=50×(乗=和算用語)(旅=軍事用語単位=500兵)=25000(数)×戯國の長里=0.43=10750km

N=10,E=0,W=0, Y=10,O=1O,R=10,K=10,,G=10,o=10,o=10,o=0,g=10,l=10,e=0,

ここまでの解読ですと、単にニューヨークのグーグル本社まで10750kmまでの解読で正史には適しません。

陳寿史記はこのように読み解きます、N=北、Go=行く。

人数は?=史表音仮名(注 今回は(止=止める)(N=10,E=0,W=0, Y=10,O=1O,R=10,K=10)=の積数は乗人数から除外。残り=10で10人の史=ふびと。記録をつかさどる役人。

 

 

<要約>

北回りで距離10750kmの旅でオビトが10人ニューヨーク本社に出航に到る。

 

<まとめ>

この五経を基軸と解読に到達した歴史学者(中国、日本を含め古代漢文史記)は皆無で、解読できず、我が国ではテニヲハ、オコト点、等で誤訳をして現在に至っています。

漢文史記のすべてが誤訳で原文は正確に記述されています。、

疑問、古代中国の正史は仮名表音が日本と異なる疑問が湧き、甲骨文字(漢文変換)で解読、その他の古代中国正史で解読をしてみました。

中国の表音と日本の表音はことなりますが、現在の中国人が中国語仮名表音でこの五経基軸文法活用の手法を使えば同じ解読ができると確信しています。

そこで、陳寿魏志倭人伝の解読に挑戦して、判明したことは、とても難解で五経の他に古代中国の歴史を紐解かないと、どうしてこの漢字が割り当てられているのか理解できませんでした。

ちなみに山海経はもっと難解。黒歯國の所在地を検証するために解読、通説とは全く異なる解読でした。ペルシャ國、距離検証、マングローブの大木記述有り。

 

邪馬壹國の四文字の漢字に陳寿武帝の記述、三国志以前の著作名称、益州の地方史である『益部耆旧伝』略歴等、倭國=九州の国々の名称等が凝縮されています。

通説で馬鹿げた論争がつづいているので邪馬壹國という名称をなぜ陳寿は記述したのか疑問をもちました、倭國と単に記述しなかったのか。

 

邪馬壹國の四文字に五経文法活用で記述され、現在ならば、デープランニング構成に、なっています。

國(表音仮名活用=こく=國・刻・玉・哭、(事例記述、乙丑(西暦245年)イザナギの仮政権時代、倭国より朝貢。【若者乍八卦藉写】=若者が八卦の書籍を写して哭=泣いて喜んだ。ということが隠れています。)

【制詔 親魏倭王卑弥呼】を賜る以前は邪馬壹國

 

※ 次、次 は後半記述になります、自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳 次有斯馬國~次有奴國 此女王境界所盡。戯國による税の徴収のための国税調査報告書。

 

※ 後半は格言、論語がちりばめられ、さらに難解になります。