<注釈>
それ以後、卑弥呼、仮政権=イザナギ、壹與、イザナギ~鸕鶿草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)~神武天皇)古事記、日本書記へ記述されるが、原文は正史なので正しいいが、読下しは大罪誤訳である。
邪馬臺國=やまたいこく=臺(台)=朝廷。役所。の意味が含まれる。(注 属國ではあるが一つの國として認められた。
※ 日本書記にはなぜ記述が無い。氣長足姬尊 神功皇后の時代に魏志倭人伝を入手したが、猛烈に批判されているので編纂時に抹消。
※ 天武天皇の時代、唐に占領され、中国(唐)に古事記、日本書記の写本が取られる恐れがあるで、表音仮名(借字)を巧みに使い記述したのではないかと思われる。
※ 年代の相違、神武天皇~欠史八代、江戸時代、明治以後、馬鹿学者が単に解読できず、歴代天皇の齢を積算して紀元前660年にしただけである。
※ 解読ヒント=(自天祖降跡以逮于今一百七十九萬二千四百七十餘歲。)自天祖降跡以逮于今(一百(二)七十(一)九萬(四)二千(三)四百(二)七十(一)餘歲。=四十三(餘=あまり)歳⇒加算
※ 歴代天皇、皇族で若くして崩御されて方の年齢は(尊)(命)を最後に諡号として付け加算、一定数のかさ上げをしています。
邪馬壹國、卑弥呼→邪馬臺國、卑弥呼→(西暦240年、仮政権=朝廷、狗奴國(伊邪那岐=イザナギ)→(復立、邪馬臺國、壹與)→(政権樹立=朝廷、狗奴國(伊邪那岐=イザナギ、)
祖父=火折彦火火出見尊、父=彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊、子=彦火火出見=神武天皇)
<五経解読>
彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊=(注 諱=いみな。解読=崩御=丙申の年=西暦276年→中国、晋、武帝=司馬炎(在位期間 266年2月4日 - 290年5月16日)、朝貢、時期は不明、玉刻を賜る。
<梁書/卷54 参照>
復立卑彌呼宗女臺與爲王。其後復立男王,並受中國爵命。晉安帝時,有倭王贊。贊死,立弟彌;彌死,立子濟;濟死,立子興;興死,立弟武。(神武天皇)
西暦294年、日本書記=神日本磐余彥天皇 神武天皇、太歲甲寅。自天祖降跡以逮于今一百七十九萬二千四百七十餘歲。四十三歳。
日本書記の神武天皇記の年代記述の最終章節→七十有六年春三月甲午朔甲辰、天皇崩于橿原宮、時年一百廿七歲。
七十有六年春三月甲午朔甲辰=(西暦240年、仮政権=朝廷、狗奴國(伊邪那岐=イザナギ)から換算して79年(約80年)、崩御=71歳
辛酉年春正月庚辰朔、天皇卽帝位於橿原宮、=(西暦301年)この年を元年として、日本足彥國押人天皇 孝安天皇記(通算年数=百二年春正月戊戌朔丙午、天皇崩。)まで記述。
※ ただし、歴代天皇の順番が入れ替わります、孝安天皇記の次代の足仲彥天皇 仲哀天皇(換算年数が元年春正月庚寅朔庚子、太子卽天皇位に変更)
<考察>
日本書記=氣長足姬尊 神功皇后記で魏志倭人伝の記述があります、通算年が仲哀天皇からの年代で計算されています、これは陳寿の魏志倭人伝の写本を入手したのでは?。
古代中国の属國は自ら元号を独自につけることは許されませんが西暦240年に魏國に逆らい、仮政権=朝廷、狗奴國(伊邪那岐=イザナギ)を樹立してその元号資料が神獣鏡の解読で考察。
<神獣鏡>
赤烏元年五月廿五日丙午造作明竟百錬清銅 服者君候宣子孫寿万年
新唐書/卷220
倭,日本
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E5%A4%B7%E4%BC%9D
初代天皇 鸕鶿草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)
其王姓阿每氏,自言初主號天御中主,至彥瀲,凡三十二世,皆以「尊」爲號,居築紫城。彥瀲子神武立,更以「天皇」爲號,徙治大和州。
次曰綏靖,次安寧,次懿德,次孝昭,次天安,次孝靈,次孝元,次開化,次崇神,次垂仁,次景行,次成務,次仲哀。仲哀死,
以開化曾孫女神功爲王。次應神,次仁德,次履中,次反正,次允恭,次安康,次雄略,次清寧,次顯宗,次仁賢,次武烈,次繼體,次安閒,次宣化,次欽明。
欽明之十一年,→(552年=欽明天皇13年)に百済から仏像と経文が伝来する)→(551年(欽明天皇12年)→(550年=欽明天皇11年)
直梁承聖元年。→(西暦552年)
※ 2年のずれが生じる
次海達。次用明,亦曰目多利思比孤,直隋開皇末,始與中國通。次崇峻。崇峻死,欽明之孫女雄古立。次舒明,次皇極。
其俗椎髻,無冠帶,跣以行,幅巾蔽後,貴者冒錦;婦人衣純色裙,長腰襦,結髮於後。至煬帝,賜其民錦線冠,飾以金玉,文布爲衣,左右佩銀蘤長八寸,以多少明貴賤。
(西暦631年)
太宗貞觀五年,遣使者入朝。帝矜其遠,詔有司毋拘歲貢。遣新州刺史高仁表往諭,與王爭禮不平,不肯宣天子命而還。久之,更附新羅使者上書。
(西暦650年)
永徽初,其王孝德即位,改元曰白雉,獻虎魄大如斗,碼硇若五升器。時新羅爲高麗、百濟所暴,高宗賜璽書,令出兵援新羅。未幾孝德死,其子天豐財立。死,子天智立。
(西暦651年)
明年,使者與蝦蛦人偕朝。蝦蛦亦居海島中,其使者須長四尺許,珥箭於首,令人戴瓠立數十步,射無不中。天智死,子天武立。死,子總持立。
西暦651年~西暦670年)の唐の正史に記述有り。
※ 直梁承聖元年。→(西暦552年)
※ 2年のずれが生じる
※ 永徽初,(西暦651年)、明、(西暦652年)=マイナス(額田王、歌=(西暦674年)、天武天皇崩御(西暦686年=朱鳥元年)
※ 欽明之十一年,→(552年=欽明天皇13年)に百済から仏像と経文が伝来する)→(551年(欽明天皇12年)→(550年=欽明天皇11年)
※ 生年は不明。出家して道観と名乗る。白雉4年(653年)の遣唐使船に留学僧として随行し、唐で学問を修める。帰国後、還俗して朝廷に仕え、天武天皇10年(681年)小錦下(後の従五位下に相当)となる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B2%9F%E7%94%B0%E7%9C%9F%E4%BA%BA
天智死,
※ 考察 23年間の差異が生じる。
子天武立。死,
※ 考察 23年間の差異が生じる。
※ 天武天皇15年7月20日(ユリウス暦686年8月14日)に朱鳥と定められ、32年ぶりに再開された。しかし同年9月9日(ユリウス暦10月1日)に天武天皇が崩御すると、以降、701年の大宝までは、元号が定められることはなかった。
万葉集に編集されている額田王の史記に天武天皇が存命されていることを検証。
甲 戊 西暦674 年
八隅知之 和期大王之 恐也 御陵奉仕流 山科乃 鏡山尓 夜者毛 夜之盡 晝者母 日之盡 哭耳呼 泣乍在而哉 百磯城乃 大宮人者 去別南
※ 粟田真人朝臣が唐より持ち帰った漏刻を天智天皇の漏刻と同様な仕様で設計建築、詳細寸法図の記述の史記(額田王)
※ 時の告げ方の詳細等も記述した歴史的資料である。
朱鳥元年九月戊戌朔丙午、天渟中原瀛眞人天皇崩、皇后臨朝稱制。
十一月甲戌朔庚辰、賞賜送使金高訓等、各有差。甲申、奉勅始行元嘉曆與儀鳳曆。
儀鳳曆=通説 ?=西暦676年 - 西暦679年
新唐書/卷220
子總持立
持統天皇(じとうてんのう)
(西暦670年)
咸亨元年,遣使賀平高麗。後稍習夏音,惡倭名,更號日本。使者自言,國近日所出,以爲名。或云日本乃小國,爲倭所并,故冒其號。使者不以情,故疑焉。又妄誇其國都方數千里,南、西盡海,東、北限大山,其外即毛人云。
(西暦701年)
長安元年,其王文武立,改元曰太寶,遣朝臣真人粟田貢方物。朝臣真人者,猶唐尚書也。冠進德冠,頂有華蘤四披,紫袍帛帶。真人好學,能屬文,進止有容。武后宴之麟德殿,授司膳卿,還之。文武死,子阿用立。死,子聖武立,改元曰白龜。
(西暦713年)
開元初,粟田復朝,請從諸儒受經。詔四門助教趙玄默即鴻臚寺爲師,獻大幅布爲贄,悉賞物貿書以歸。其副朝臣仲滿慕華不肯去,易姓名曰朝衡,曆左補闕,儀王友,多所該識,久乃還。聖武死,女孝明立,改元曰天平勝寶。天寶十二載,朝衡復入朝。
上元 (唐粛宗) : 唐代、粛宗の治世に使用された元号(760年 - 761年)
上元中,擢左散騎常侍、安南都護。新羅梗海道,更繇明、越州朝貢。孝明死,大炊立。死,以聖武女高野姬爲王。死,白壁立。
(西暦780年)
建中元年,使者真人興能獻方物。真人,蓋因官而氏者也。興能善書,其紙似繭而澤,人莫識
貞元 (唐)(785年 - 805年)
貞元末,其王曰桓武,遣使者朝。其學子橘免勢、浮屠空海願留肄業,曆二十餘年。使者高階真人來請免勢等俱還,詔可。次諾樂立,次嵯峨,次浮和,次仁明。
(西暦839年)
仁明直開成四年,復入貢。次文德,次清和,次陽成。次光孝,直光啟元年。
(西暦640年)
貞觀十四年,其王遣子可也余莫貂皮更三譯來朝。授騎都尉,遣之。
龍朔初,有儋羅者,其王儒李都羅遣使入朝,國居新羅武州南島上,俗樸陋,衣大豕皮,夏居革屋,冬窟室。地生五穀,耕不知用牛,以鐵齒杷土。初附百濟。麟德中,酋長來朝,從帝至太山。後附新羅。
(西暦723年)
開元十一年,又有達末婁、達妒二部首領朝貢。達末婁自言北扶餘之裔,高麗滅其國,遺人度那河,因居之,或曰他漏河,東北流入黑水。達姤,室韋種也,在那河陰,凍末河之東,西接黃頭室韋,東北距達末婁云。
<解読>
(西暦670年)
咸亨元年,遣使賀平高麗。後稍習夏音,惡倭名,更號日本。使者自言,國近日所出,以爲名。或云日本乃小國,爲倭所并,故冒其號。使者不以情,故疑焉。又妄誇其國都方數千里,南、西盡海,東、北限大山,其外即毛人云。
咸亨元年,遣使賀平高麗。後稍習夏音,惡倭名,更號日本。使者自言,國近日所出,以爲名。
<解読>
倭國
咸亨元年,(西暦670年),
遣使賀平高麗=賀=が=よろこぶ。祝う。平(表音仮名)=へい=並。高麗=こうれい。
後稍習夏,更號日本=後稍(表音仮名)=そうしゅう=早秋=秋の初め。ようやく。次第に。だんだんと。少しずつ。初秋。習夏(表音仮名)=しゅうか=終(夏=たより。おとずれ。知らせ。)
音惡倭名=音=いん=中国から伝来した漢字の発音。また、その読み方。惡倭名=あくわめい。
更號日本。使者自言,國近日所出,以爲名。=更=こう=あらためる。かえる。とりかえる。新しいものにする。號=こ=名づける。称する。
日本=にちほん
使者自言=ししゃじごん。
國近日所出=國=こく=(倭國)。近=きん=ちかい。時間的・距離的にちかい。日=じつ=ひ。太陽。太陽の光。ひる。ひるま。太陽のでている間。所=しょ=ところ。場所。所在。出=すい=あらわれる。うまれる。うみだす。
以爲名=以=い=もちいる。使う。使用する。爲=い=おさめる。まとめる。統治する。名=めい=なのる。なづける。例:命名(めいめい)
咸亨元年,遣使賀平高麗。後稍習夏音,惡倭名,更號日本。使者自言,國近日所出,以爲名。
<要約 1 >
咸亨元年遣使賀平高麗(表音仮名)=かんこう=咸亨元年,(西暦670年)。倭國遣使並びに高麗遣使が喜びを祝いに朝貢。
後の早秋の終夏の訪れの時期、音悪(いんあく)なので倭銘を新たに名づけました、日本と使者は自ら唱えた。
日本國は太陽の日が近く出るところで、これをもって、治める名にいたします。
或云日本乃小國,爲倭所并,故冒其號。使者不以情,故疑焉。
<解読>
或云日本乃小國爲倭所并=或=わく=ある。ある~。とある。不特定の物事を指すことば。ある。あること。存在する。日本。乃=だい=すなわち。そこで。そういう理由で。つまり。小國
爲倭所并=爲=い=おさめる。まとめる。統治する。倭=わ=倭國。所=しょ=ところ。場所。所在。并=へい=あわせる。あわす。一つにする。
故冒其號使者不以情故疑焉=故冒(表音仮名)=こもう=虚妄=うそ。いつわり。虚偽。きょもう。其號=きこう=紀綱=「紀」は細い綱、「綱」は太い綱》国家を治める上で根本となる制度や規則。綱紀。
(號)使(表音仮名)=こうし=公使=国家を代表して外国に駐在し、外交事務を取り扱う職務。また、その人。大使に次ぐものとされ、普通は特命全権公使をいう。
(號)=こう=名づける。称する。(公使)者=特定の人やものを指し示すことば。
<注釈>
以下の部分の五経文法は緻密である。
<解読>
不以情故疑焉=不=ふ=「~しない」「~でない」の意を表す。以=い=もちいる。使う。使用する。
以=い=もちいる。使う。使用する。→日本國名
以情(表音仮名)=いせい=(注 1 為政=政治を行うこと。)(注 2 威勢=人を恐れ従わせる力。「権力者の威勢に恐れをなす」
故疑(表音仮名)=こぎ=狐疑=ある事に臨み、うたがってためらうこと。
焉=えん=「いずくんぞ」と読み、「どうして・・・か」の意。文末につけて、語調をととのえる助字。
疑焉(表音仮名)=ぎえん=魏延
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AD%8F%E5%BB%B6
※ 魏延の兵は皆魏延が悪いことを知っていたため命令を聞かず四散してしまい、やむを得ず北へ向かって逃走。結局、追いつかれた馬岱によって斬り殺された。
<要約 2 >
焉⇒「いずくんぞ」と読み、「どうして・・・か」の意。文末につけて、語調をととのえる助字。章節の全文に掛かる。
つまり、日本は小国ということか、?治める九州を合わせて一つにするということか、もともとが虚妄(こもう)、紀綱の公使者か。
又妄誇其國都方數千里,南、西盡海,東、北限大山,其外即毛人云。
<表音仮名解読>
又妄誇=又(表音仮名)=邑。ゆう=また。さらに。そのうえ。妄=ぼう=みだり。うそ。いつわり。でたらめ。道理に合わないこと。誇=こ=ほこる。いばる。自慢する。
又妄誇=又(表音仮名)=邑。ゆう=また。さらに。そのうえ。妄=ぼう=みだり。うそ。いつわり。でたらめ。道理に合わないこと。誇=こ=ほこる。いばる。自慢する。
(誇)其國=(誇)其(表音仮名)=こき=古記=ふるい記録。旧記。其國(表音仮名)=きこく=貴国=相手の国を敬っていう語。
都方數千里=都=と=みやこ。數=そく=(いくらか。いくつかの。数=すう。)千里=せんり。
數(表音仮名)=(そく・す・すう・さく・しゅ)=数・州
※ 約千里=(注 唐時代の1里=0.56km×1000里=560km(福岡県大宰府市~神戸~京都府630km、国道2号線、Google) 直線距離=約530km
千(表音仮名)=せん=銭。里(表音仮名)=り=厘・離=はなれる。
南西盡海=南西=だんさい=南西は方角を示す。西南は土地を示す。盡=じん=つきる。つくす。おわる。海=かい。
東北限大山=東北=とうほく=東北は、土地を示す。北東は方角を示す。限=げん=かぎる。区切る。範囲をきめる。大山=だいさん。
其外即毛人云=其=き=その。それ。人や物事を指ししめす。即=そく=つく。近づく。くっつく。毛人=もうじん=蝦夷(えみし、えびす、えぞ)。
云=うん=いう。声に出していう。他を引用していう。
<注釈>
この記述の時期は、白村江の戦いに敗れ、唐の占領軍(GHQ)通説では二千人、解読確認では三千人が九州に進駐して占領下におかれた状況で唐の本国の記述で遣唐使との記述となります。
<表音仮名要約>
叉、嘘、いつわりを述べて、道理に合わないことをしないように、古記の古い記録にある、貴国が遷都する邑=領地は東に約1000里。
その領地はことごとく海で、東北は大山、その外は毛人=蝦夷と言っている。
<注釈>
自身、記述していて、この要約では納得がいかない、どこの部分がおかしいか、わかるでしょうか。
(東に約1000里。)、東はどこの漢字史記から引用しているのか、千里から六文字後の東を千里の前にもってくるような、いい加減な文法ではありません。
回答=都方(表音活用仮名)=都方=とほう=兔=と=卯方位=うほう→東方數千里。
叉、漢字字数を増やして熟語を創作したり、解釈できない漢字を飛ばしたりはできません。こじつけ表音仮名も禁止です。
表音読みの順番を変更すると、本来の深層の意味熟語に支障をきたし、解読できません。
<表音仮名、深層=ディープランニング要約 3 >
叉、嘘、いつわりを述べて、道理に合わないことをしないように、古記の古い記録にあるように属國である、徒法、正しい法則を断裁しないように取り上げるが、その回答は(佩韋佩弦)を厳守。(貴国は帰国)して、遷都する邑=領地は東方に約1000里。
題簽(記録書の題字を付け)書き記している。
其外即毛人云=その外即(表音仮名)=がいそく=手の届かない遠い所へ、毛人(表音仮名)=もうじん=蒙塵かと、問う。
蒙塵=もうじん=「春秋左伝」僖公二十四年から。天子が行幸するときは道を清めてから行くが、変事の際はその余裕がなく、頭から塵 (ちり) をかぶる意》天子が、変事のために難を避けて、都から逃げ出すこと。みやこおち。
<まとめ>
魏志倭人伝、古事記、日本書記を解読して判明したことは古事記、日本書記は時の政権に都合の悪い魏志倭人伝の記述は歴史からは削除。
だからと言って古事記、日本書記がでたらめかというと、史実が記述されています、江戸時代から延々とつづく大罪誤訳により、史実が捻じ曲げられています。
邪馬壹(臺)國の所在地は九州福岡県八女市、近郊で那國の血族宗家と狗奴國の血族分家の延々とつづく政権抗争、那國宗家の血族の雄略天皇が中興の祖ですが、男系血族が途絶えます。
古代の漢時代(後漢の皇帝血族も前漢で途絶え6~7代の遠遠血族で再興、これに見習い、継体天皇を即位させ出自は越後だはありません、越州(浙江省紹興)
邪馬壹(臺)國以前より多くの倭人が自治していました、越州朝貢が証です。
<自説を結論づけるための推察>
そもそも、那國の血族と狗奴國の血族が争うのか、双方とも、我らの血族が宗家で正しいと主張していると思われる。
※ 史記で解読できるのか?⇒伊都國(陳寿の記述でも見下した國名ではない。)イザナギ=伊邪那岐、伊と那國の漢字が使われている、(伊)にこだわっていると推察。
※ 天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命 『古事記』・彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊 『日本書紀』、古事記では(建)は那國の宗家の血族?、
※ (諱・諡)を解読⇒要約⇒丙 申 西暦276に 年司馬 炎(しば えん)に朝貢、伊尹が祖である、?⇒まゆつば、何かの間違い。五経文法の間違い、?
※ 殷本紀 伊尹名阿衡。阿衡欲奸湯而無由,乃為有莘氏 媵臣,負鼎俎,以滋味說湯,致于王道。
※ 通説の読下しh料理の誤訳。
※ 解読すると殷の宰相の公労で400町歩の土地を賜った、東の夷(倭)國から来、(乃・能)が現れましたので、以前は日本神話に登場する(乃=地神・能=弁神)がなぜ土地の神なのか理由が不明。
※ ようやく納得できました。那國の血族と狗奴國の血族も源流は同じ祖の伊尹と結論づけました。
新唐書/卷220と年代の相違が見られますが大した問題ではありません、史記を解読できない学者、研究者が欠史八代だのの論法を唱えますが、周~漢~魏~唐の政権は属國に対して、甘くはありません。
重い税を倭国の歴代政権に要求しています、逃れられますか延々と朝貢しているということは税を納めているということです。
白村江の戦いに敗れ、敗戦、九州政権の占領、大東亜戦争の敗戦(GHQ)よりきつい状況で東大地震震災と同等の大地震が九州を襲い都が壊滅状態で、唐の占領、3度の天変地異、遷都は自然の成り行きです、壬申の乱の平定後西暦672年に遷都、場所は京都ですが持統天皇の時奈良に遷都。
※ 遷都してから九州で付けた名称と同一名称にしただけです。
<疑問が湧いてきます、簡単に遷都ができるのか?>
古代中国の漢に習い、羈縻政策(きびせいさく)を歴代の天皇により平定してきたと思われる。その後、基盤となる五畿七道(ごきしちどう)には諸説あるが同等の政令は存在したのではないか。
羈縻政策(きびせいさく)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%88%E7%B8%BB%E6%94%BF%E7%AD%96
五畿七道(ごきしちどう)
古代日本の律令制における、広域地方行政区画である。畿内七道(きないしちどう)とも呼ばれた。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E7%95%BF%E4%B8%83%E9%81%93
<複都制>
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A4%87%E9%83%BD%E5%88%B6
中国の複都制は都市国家時代の周に始まる。渭水流域の盆地である関中に起こった周は東方の華北平原諸国の盟主であった商(殷)を滅ぼすと、東方諸国を支配する拠点としてこの平原への出口である洛水流域の要衝に洛陽を建設して、後の長安の前身となる関中の鎬京と洛陽の二つの拠点から臣従する都市国家諸侯に盟主として臨んだ。
※ 次回、(新唐書/卷220、⇒(西暦651年)天智死,子天武立。死,子總持立。(西暦670年)唐が倭國に対して疑念を抱く記述、それに対して倭國(日本)の対応記述。
※ 日本書記、天武天皇記上の記述と35年間のずれがある。
※ 漢に見習い、複都制を立案画策、近江京(都)弘文天皇 (大友皇子)。倭京(都)天武天皇。すべて唐の占領から逃れ、600年余りの属國から独立国に歩み出すため。天武天皇、入東國、壬申の乱で勝利。
※ 次回解読
是月、朴井連雄君、奏天皇曰「臣、以有私事、獨至美濃。時、朝庭宣美濃・尾張兩國司曰、爲造山陵、豫差定人夫。則人別令執兵。臣以爲、非爲山陵必有事矣、若不早避當有危歟。」或有人奏曰「自近江京至于倭京、處々置候。亦命菟道守橋者、遮皇大弟宮舍人運私粮事。」天皇惡之、因令問察、以知事已實。於是詔曰「朕、所以讓位遁世者、獨治病全身永終百年。然今不獲已應承禍、何默亡身耶。」
※ 誤訳の通説読下しとは異なります。