魏志倭人伝 卑弥呼 古事記 日本書記 万葉集 甲骨文字 以音 五経基軸文法による解読

漢文史記は五経文法が採用されています、この五経文法は殷時代の甲骨文字(漢字変換)でも採用されており、古代中国は唐時代の末期で消滅、日本では奈良時代(西暦720年)頃で消滅して現在に至っています、この漢文史記を一字一句解読したブログになります。

09 南行至投馬國の所在地、現在は久留米市大善寺駅、実測測定着地点の積算算出距離。

南至投馬國 水行二十日 官日彌彌 副日彌彌那利 可五萬餘戸

<所在地>

陳寿の記述で実測距離は経典(四書五経)の漢文(借字)特殊文法活用で実測距離は積算算出して表れます。

 

<当方のブログを閲覧してくださるみなさまへ>

現在に於いても、政権を担う公人の重要書類、書簡は秘密保持が維持されています、古代の同様ですが、PCパスワードも存在しないので、五経文法が活用されます。

しかるべき公人にしか解読できないようになっています。

不彌國~投馬國~邪馬壹(臺)國へ到るまでの距離は記述されています、実測距離は積算算出して表れます。

不彌國~投馬國=77里=33.88km=うきは市(現、古墳群の中心所在地~福岡県久留米市大善寺町(駅周辺)

Gooleマップ測定距離=33.66km=徒歩=6 時間 58 分(33.6 km)

投馬國~邪馬壹(臺)國=36里=15.84km、福岡県久留米市大善寺町(駅周辺)~大字久泉、福岡県八女郡広川町

 

<注釈>

Gooleマップ測定距離=直線距離ではありません。

<注釈>

当時もある程度の路(道路)も整備され、直線上は武器、織物の原料植物栽培や、湧水があったと思われます。

福岡県久留米市大善寺=出発地点

福岡県筑後市大字羽犬塚=7.8km

福岡県八女市亀甲=2.8km

福岡県八女市吉田773=2.4km

大字久泉、福岡県八女郡広川町=2.2km

Gooleマップ測定距離=合計距離=15.20km

<注釈>

八女郡広川町へは南側道路からが謁見道路となります。

古くから「天子南面す」と言われるように玉座は南、太陽の方角を向いていました。

 

<邪馬壹(臺)國の所在地の断定理由>

八女市 福岡県八女市吉田1396−1に所在する岩戸山古墳と推測したからです。

魏志倭人伝の記述(卑弥呼以死 大作冢 徑百餘歩)五経文法積算算出の結果、同等寸法と陵墓の形状を考慮して判断いたしました。

八女郡広川町が邪馬壹(臺)國の中心(太極)、八女市 福岡県八女市吉田1396−1に所在する岩戸山古墳の方位は西南の鬼門で守り神として鎮座する陵墓。

 

陳寿魏志倭人伝の実測距離はすべて都(洛陽)~邪馬壹(臺)國至るまで誤差が少ない法里で記述されています。

魏國=1里=0.43416km=(繰り上げ=0.44km)

 

南行至投馬國の所在地は現在は久留米市櫛原町(久留米大橋下河川敷グランド近郊、北側が、(伊都國の國境、筑紫川の向こう岸)

南、投馬國との國境は高良大社~東に筑紫川に直線を引いた線上が領土(以南が投馬國)

東側は有明海(注 現在の地図とは相違があると思われます、福岡県大川市一部(当時は筑紫川河口又は有明海吃水域、福岡県大木町不明(有明海?)

 

<注釈 1 >

<投馬國=五萬餘戸×家族構成人数=(兵員=夫=1人、婦人=1人、(妾=3人~5人)、子供=5人、死亡率を考慮して平均=6人~7人=30萬人~35萬人>

(注 兵員数=7割想定、老人を除く、=3萬5千人)

<邪馬音(臺(國=七萬餘戸×家族構成人数=(兵員=夫=1人、婦人=1人、(妾=3人~5人)、子供=5人、死亡率を考慮して平均=6人~7人=4.2萬人~4.9萬人>

(注 兵員数=7割想定、老人を除く、=4萬9千人)、備考、投馬國兵員数=4萬人、奴國=奴婢兵員数=2萬人。邪馬壹(臺)國自衛防衛軍、総合計=約10萬人

 

上記の記述は魏志倭人伝の記述の後半で邪馬壹(臺)國の自衛防衛軍と狗奴國との戦が始まります、その記述で防衛軍事訓練で兵員数が記述されていますので、ご記憶ください。

 

<注釈 1 >

投馬國=五萬餘戸+邪馬壹國=七萬餘戸=合計十二萬戸(こ=戸主=12萬人)×(平均家族=6人~7人)=4.2萬人~4.9萬人

12萬戸主家族以外に鮮卑(下僕、使用人)の存在があります、衣食住を検証する必要が生じます。

投馬國の検分視察期間は1週間で露田の実測検分も無いのに、期間が長い、想定としては邪馬壹(臺)國に従属する十三國の出先機関(藩)及び、護衛軍の護官、兵員等の國

九州の各為(い=統治する)王の一族の人質。

 

<注釈 2 >

藩=地方を治めて、王室の守りとなった(邪馬壹’臺)国の属國=諸侯。)

古代中国の周で、王室を護衛する諸侯を藩[1]と呼んだのが由来とされる。転じて、国を冊封された諸侯一般、およびその領地を指すようになった。

 

冊封(さくほう、さっぽう)又册封とは、称号・任命書・印章などの授受を媒介として、「天子」と近隣の諸国・諸民族の長が取り結ぶ名目的な君臣関係(宗属関係/「宗主国」と「朝貢国」の関係)を伴う、外交関係の一種。

 

逆に、邪馬壹(臺)國からは従属國に(刺史=しし)の派遣と従属國の防衛補助兵員の派遣。

邪馬壹(臺)國に対し政治行政と組織の検分と思われます。中国の漢時代に行われ、倭国で(二十等爵、爵制)が実施されているのかを確認し詳しく検分。

 

<投馬國・邪馬壹國(那國の戸主(戸数が多いので比較として下記を記述。>

加賀藩前田家

加賀藩前田家、1721年、物語藩史6巻、人口約70万人、武士人口は67302人、人口の約10%

武士人口と一口に言っても(老人や子供、女子も含む)、軍事組織の人員として期待出来るのは戸主のみ。

明治元年における加賀藩の武士は士分7077戸、卒分(足軽以下)9474戸の合計16551戸、1戸につき約4人妥当。

 

<邪馬壹(臺)國=自衛防衛軍兵=想定兵数=10萬兵>

<所在地、備考>

投馬國と邪馬壹(臺)國の人口密度を考慮すると、二國間の國境は現在地図上では九州新幹線矢部川下流の東側が投馬國、

西側が邪馬壹(臺)國(現、八女市みやま市大牟田市以北が想定されます。

 

南至投馬國 水行二十日 官日彌彌 副日彌彌那利 可五萬餘戸

 

<解読>

南至投馬國水行二十日官日彌彌副日彌彌那利可五萬餘戸=南に行くと投馬國に至る、(注 検分、水行(借字)=すいこう=遂行=二十日間、4月9日~4月29日

副日彌彌那利可五萬餘戸=4月29日、彌彌=(何度も繰り返し見て。また、見ること。)(那利=だり=接助=事例=楽しんだり、飲んだり)、五萬餘戸

那利可=(もう一方の意味は那國より階級的位置的に低い国)

 

官曰彌彌、副曰彌彌那利=官は彌彌(みみ)という。副は彌彌那利(みみなり)という。=官職ではありません、叉、表音読みも間違い。

この後も通説では官職としていますが、でたらめ解読で日本史の計り知れない汚点です。

 

<解読 積数算出日時 1>

官日彌彌 副日彌彌那利

4月22日、4月29日

<解読 漢文(借字)読下し 2>

官日=かんじつ=閑日=ゆったりと過ごす日

彌彌=(何度も繰り返し見て。また、見ること。)魏国による属國の国税調査なので事細

かく検視。

延べ八日間も検視しています、(五萬餘戸×5人家族=25萬人になります、4人家族で20萬人

後の記述で出てきますが、家族構成(階級=上戸=男子1人に対して婦人4.5人、下戸=男子1人で2.3人)有しています、男子、老人=5萬人~7萬人・婦人=12萬人・子供=6萬人=想定人工

露田(田んぼ)の記述はなく、20萬人~35萬人が生活するには生産食料の自給が不可欠となります、属國からの税の徴収だけでは無理が生じます。

魏國に対価は求められません、想定するのは貿易で財源をもとめるしか方法がありません。

1武器の輸出(刀、弓、矢)2(鉄製品の農機具=鍬、鋤等)3繊維(麻、紵=からむし、正絹、刺繡製品=金絲、染め正絹)4鉱物製品(金、銀、辰砂、朱=顔料、白水晶=白珠)

5 海産物(真珠、珊瑚、干し鰒、)

邪馬壹國の貿易相手國(現在の日本では長門山口県、(羈縻=きび=吉備=岡山県)、四国=愛媛県)古代中国では寧波市=ニンポー(呉)、羅國=シャム國、黒歯國=ペルシャ

資源の確保=鉄は属國の百済等(卑弥呼の時代は現在のソウルまで邪馬壹國の属國で倭國です。

金、銀、水晶等は邪馬壹國の東南=鯛生金山(たいお)…金・銀・銅・鉛、採掘は(南人=羅國、黒歯國)、(奴婢、卑弥呼の没で葬儀礼で喪に服しています。叉、殉葬。)

 

羈縻政策=きびせいさく、参考、吉備の語源>

羈は馬のおもがい,縻は牛の鼻綱を意味し,2字でつなぎ止める,牽制するの意味。中国諸王朝が外族内部の行政組織をそのままにして外族を統御する伝統的政策をいう。

すでに漢代には外族の首領に対し爵位,恩典を与えて王朝と結びつけようとしており,唐では羈縻州といって外族の部落に州や県をおき,その首領に唐の官名である都督や刺史を与え,都護府がこれを統括した。羈縻州は内地の州をはるかに上回り,850州余もあったといわれる。

 

<なぜ、くどくど説明を記述するのか、1700年間も解読されず、誤解釈のオンパレード、お付き合いください。>

 

魏國の天子の詔勅倭国国税調査検分に来た検使の上奏報告書を、後年(晋國の天子の正史の記述者として任命された陳寿)がどのように記述したのか、できるだけ正確に解読するためです。

投馬國は五萬餘戸(戸主)が有、露田は無く、1週間も滞在し、ボーと過ごしていたのか疑問が湧きます、叉、投馬國、邪馬壹(臺)國(那國)の合計戸主総数は12萬戸に及びます。

邪馬壹(臺)國の人口数を検証する過程で単純に(戸主の家族構成数)を積算、乗算すると誤差が大きくなるので二十等爵の爵製を反映して計算した結果。

 

邪馬壹(臺)國=総人口、100萬人

(内訳)

對海國 一大國 末慮國 =48000人

奴国         =120000人

伊都國 不彌國    =60000人

小計=228000人

投馬國        =338200人

邪馬壹(臺)國(那國)=444500人

結論結果は次回、南至邪馬壹國 女王之所都 で解読記述を説明いたします。

<従属国、付庸国

内政や外交の処理に関して他国 (宗主国) の指示に服する国。国際法上,宗主国の国内法に基づいて外交関係の一部をみずから有するが,他の一部は宗主国が有する。

付庸国は、一国の一部が国内法により独立的地位が認められたもので、なお邪馬壹(臺)國は従属関係國。

漢書、「百官公卿表上」には爵は「功労を賞する」とあり、国家に対して功労があったものに爵が与えられるとしている。実際に功労によって爵が与えられた例も数多い。

具体的には軍功に対する賜爵、政府に多額の財貨を納めて爵を買う買爵、辺境に新たな邑を作る際に移住した民に対する賜爵などがある。また民衆同士で爵の売買を行う事例もある。

ここで殷王や周王の権威に服した大邑の君主が「諸侯」、王や諸侯の君臨する大邑が「國(コク)」である。 [4] 殷や周といった古代王朝の実態はこのような邑の連合体であり、

その総数は周初で1,700、東周時代で1,200を数えたとされる。

邑から成る社会の発展に伴い、君主の在所である大邑を「都(ト)」、それに従属する小邑を「鄙(ヒ)」の字でも表現するようになる。

紀元前106年、武帝は全国を13州(11州と2郡)に分け、各州に刺史を設置した。これにより郡県は州・郡・県3段階の地方制度に改まった。

<注釈>

二十等爵

爵の授受・剥奪・売爵

上述のとおり、二十等爵制は良民の男性なら庶民でも爵が与えられるのが大きな特徴である。年齢制限は無い。賤民(商人・奴婢・罪人など)は対象外である。

<まとめ>

邪馬壹(臺)國の所在地を投馬國の節で記述したのは、距離を確認するのに記憶がうすれるからです。

 再三に渡り記述していますが、魏志倭人伝は旅行日記的記述ではない、魏國が属國に厳しく行った国税調査報告書、我が国で通説読下し記述では晋國の天子に献上するにしても、丞相、高官に叱咤、激高の後に、廃棄されるような誤解釈読下し文である。

08 魏志倭人伝、東行至不彌國 百里 官日多模 副日卑奴母離 有千餘家 百里 露田 里は面積 Ⅲ。

東行至不彌國 百里 官日多模 副日卑奴母離 有千餘家

<所在地>

陳寿の記述で実測距離は経典(四書五経)の漢文(借字)特殊文法活用で実測距離は積算算出して表れます。

 

東行至不彌國の所在地は現在の朝倉市(小石原川東側)、うきは市、日田市、久留米市櫛原町(久留米大橋下河川敷グランド近郊、反対河川(筑紫川本流域に合流する宝満川、陣屋川地点の反対側(筑紫川南側(久留米市)が國境で南側が投馬國。

南側境、投馬國との國境は高良大社~東に筑紫川に直線を引いた線上が領土(以北が伊都國)

<解読>

東行至不彌國=東行、不彌國に至る。

百里=露田(田んぼ)、百里=現在の18ホールゴルフ1施設(30萬坪)

<誤解読>

官曰多模、副曰卑奴母離=官は多模(たも)という。副は卑奴母離(ひなもり)という。=官職ではありません、

この後も通説では官職としていますが、でたらめ解読で日本史の計り知れない汚点です。

 

<解読 積数算出日時 1>

420日、4月22日

 

<解読 漢文(借字)読下し 2>

多模=多くの(模=ぼ=捺染(なっせん)

卑=自分をへりくだっていうことば。

奴=(表音借字)=ど=土=領地。(注=漢字の(表音借字)は特殊文法活用で積算算出に影響します、

漢字一句の場合の意味、熟語として記述されている場合で奴の場合(音読み=ぬ、ど)2種の音読みがあり、文脈をよみとり解読します。

母=も(借字)=莫=くれ。夕暮れ。日暮れ。夜。

離=り=はなれる。

<注釈>

(家=卑弥呼の一族を表しています)不彌國は背後に現在の日田郡に存在した金鉱山を有していました、北西に向かうと伊都國(都)の領地と思われる(現=武雄市=波佐見水銀鉱山)

後の記述ででてきますが、(辰砂=朱=顔料)(金=金絲)等を生産し、奴婢を使い養蚕、絹織物を産業として魏國の朝貢献上品、裸國=シャム國、黒歯ペルシャ國等に輸出していたものと思われます。

<注釈、黒歯國所在地=ペルシャ國の検証>

山海経

有黑齒之國 帝俊生黑齒 姜姓 黍食 使四鳥

殷時代の帝俊=諡号=丁旬の記述。

黑齒國在其北 爲人黑 食稻啖蛇 一赤一青 在其旁 一曰 在豎亥北 爲人黑首 食稻使蛇 其一蛇赤 下有湯谷 湯谷上有扶桑 十日所浴 在黑齒北 居水中 有大木 九日居下枝 一日居上枝

山海経の記述実測距離は経典(四書五経)の漢文(借字)特殊文法活用で実測距離は積算算出して方位を確認して解読。

 

東行至不彌國 百里 官日多模 副日卑奴母離 有千餘家

<解読>

東行至不彌國百里官日多模副日卑奴母離有千餘家=東行、不彌國に至る百里、4月20日、4月22日夕暮れに離れる。(一族なので戸ではなく家になり、千餘家。)

多模=多くの(模=捺染(なっせん)などに使うための、模様を彫りぬいた木。)麻、正絹の染色版木を奴婢が彫刻していた。

<鉱山>

鯛生金山(たいお)…金・銀・銅・鉛

大分県日田市中津江村鯛生地区、白水晶。

白水晶=玉=古くは玻璃(はり)と呼ばれて珍重された。

璧(へき)は古代中国で祭祀用あるいは威信財として使われた玉器。 多くは軟玉から作られた。 形状は円盤状で、中心に円孔を持つ。

 

<邪馬壹(臺)國の所在地論争>

百里、伊都國、百里 奴國、百里、不彌國=露田(田んぼ)の面積で距離ではありません。

露田(田んぼ)面積合計は七百里

魏國に対して邪馬壹(臺)國の自己上申は=露田(田んぼ)面積合計は七百里、伊都國、奴國、不彌國で実測検分した後に(自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶、記述)

次有巳百支國~次有奴國 此女王境界所盡まで21ケ國の記述は魏國の天子に上納する倭國の国税調査報告書の記述。

邪馬壹(臺)國の自己上申に間違いはないと記述しています、詳細は、この一小節の記述を投稿した際に述べます。

魏志倭人伝陳寿の記述は表音漢字(借字)特殊文法で表音漢字活用や論語活用の引用を用いた記述で成り立っている。

積算算術もその中に含まれ七百里を表すためにこの文法を手法として採用しています。

陳寿が記述した時代は魏國→晋國時代ですが、いずれも属國からの税を取る國なので重要な記述と思われます。

安易に解読できないような漢文記述になっています。

現在に置き換えると、PCにパスワードを入力しないと開かないようになっています。

 

<注釈>

後世の奈良時代以前、奈良時代に朝廷の部として馬飼部=諜報機関の存在があり、手紙(重要文)送り解読するにはこの手法がつかわれたと思われる。

<部民制>

王権への従属・奉仕、朝廷の仕事分掌の体制である。名称は中国の部曲に由来するともいう。

例としては語部・馬飼部などがある。語部は、伴造(とものみやつこ)である語造(かたりべのみやつこ)氏に率いられ、古伝承を語り伝え、宮廷の儀式の場で奏上することをその職掌とした。

例としては王族・額田部女王に属した額田部、豪族・蘇我臣や大伴連・尾張連に属した蘇我部や大伴部・尾張部などがある。

ただし後述のように、朝廷に対する奉仕を媒介として設定される点では職業系の部と通底している。

<重要秘密文書の解読係>

陰陽師(おんみょうじ、おんようじ)は、古代日本の律令制下において中務省陰陽寮に属した官職の1つで、陰陽五行思想に基づいた陰陽道によって占筮(せんぜい)及び地相などを職掌とする方技(技術系の官人。技官)として配置された者を指すが、陰陽五行思想に基づいた陰陽道によって占筮(せんぜい)及び地相などを職掌とする方技(技術系の官人。技官)として配置された者を指す。

 

<まとめ>

陳寿は倭國の地理を知らない、誤字記述、方位がでたらめ、浅い研究を広める学者、解読できない研究者、きりがない。

自己解釈に都合の良いでたらめ研究論文を引用して講演している現状は滑稽である、漢字の一字一句を解読できない学者、研究者たちの馬鹿げた論争。

再度のブログ投稿記述の抜粋

01 魏志倭人 (1 伝倭人在帶方東南大海之中)(2 從郡至倭 循海岸水行 歴韓国)(3 始度一海 千餘里 至對海國) 国税調査検分報告の記述書である。

日本書記

氣長足尊 神功皇后

宿禰爲太子答歌之曰、

許能彌企塢 伽彌鶏武比等破 曾能菟豆彌 于輸珥多氐々 于多比菟々 伽彌鶏梅伽墓 許能彌企能 阿椰珥 于多娜濃芝作 沙

<概略解読>

<要約>

倭國の遠い古代の道義・学問・文化を軽侮のたぐいでこわしている(批判)を付け加えた正史である、祖師の示した教えで旅立ちで渡唐し入手したが、昔の書で月日を経ている。

<要約>

ここに、中国から自分と自分以外の者が持ち帰った正史はるか昔でこれはえこひいきするものである。

<要約>

正史は本来知識を得させ、その教養が増すことを手本として要素にしたものである、遠い古代の道義・学問・文化を欺く正史にしてはならないが野次の正史である。

<要約>

ここに、多くの正史をまとめて上梓するに当たり、良いものと悪いものを選り分け写す、上巳=陰暦3月初の巳の日,3月3日。

<注釈>

魏志倭人伝イザナギ神、神スサノオを強烈に批判、どうしようもない、生まれ変わった方が良いとこき下ろしているので古事記、日本書記の編纂に際し記述できない。

古事記、日本書記の編纂に際し,安萬侶,稗田阿禮 獻上

 

<通説>

神功皇后(二十七)此の御酒は 吾が神酒ならず

現代語通説、記述に与えしない

 

<当方のブログを閲覧してくれるみなさまへ。>

江戸時代から解釈されている読下し文に疑問を抱きませんか、中国、日本でも重要書類、議事録、手紙でも年月日を記述しないと常識がないと問われます。

陳寿が記述した正史(魏志倭人伝)の多く記述節には年月日が明確な記載ありません、それを認めた魏國、晋國の天子が馬鹿なのか、極楽トンボなのか。

それとも、江戸時代から解釈されている読下し文が誤訳なのか、記述に年月日が隠されて居るのか、深く掘り下げて研究することが学問と思うのですがどうでしょうか。

通説の読下しは正しいのか疑問をもちました。額田王の詩を漢字一文字の意味を羅列してから熟語の意味も検索し、当確する漢字では見当たらないので、PCにひらがな入力を行い当確する(仮借)漢字を引用して徐々に解読がすすみました。

額田王のある詩に(漏刻=水時計)の記述があり、解読しましたが文脈理論として刻の知らせ方と、一日に何回(太皷、鐘)を鳴らすのかと疑問をもちました。

試行錯誤を繰り返し、一定の文法を当てはめると48刻(積算算出)が現れました。

 

<漏刻 コトバンク参照>

https://kotobank.jp/word/%E6%BC%8F%E5%88%BB-152387

 

記述解読を進めていくと、額田王は詳細に漏刻製作説明を記述していました、現存している天智天皇の漏刻の図を精査して漢文(仮借)文字が当てはまるか確認しました。

余りのも綿密に記述されているので大変驚きました。

 

天智天皇の漏刻の図

http://www.kodokei.com/la_011_3.html

 

<当方が漏刻図の画像検分としての疑問が湧く>

通常、日本では昼(日)、夜といいます、夜、昼(日)とは言いません。漏刻の落差を付けた水箱名称(夜天地→日天地)となっています、(日天地→夜天地)にしなかったのか。

理由が判明いたしました、(夜天地→日天地)に命名しないと詳細寸法が積算算出できないのです。

倭国、日本の史記ではこの特殊文法で多くの史記を解読して納得ができました。

本家の古代中国ではこの文法が通用するのかと思い、多くの古代中国(殷)甲骨文字(漢文変換)史記にあてはめると少し異なりましたが解読できました。

 

御多分に漏れず、解読している大学教授、研究者の解釈は?魏志倭人伝と同様。

 

陳寿魏志倭人伝ではと挑戦、まったく解読不可能、(四書五経=仮借、論語)が使われていることに気が付きました、これは野馬台詩が西暦479年、宝誌記述 六十一歳。

 

漢文特殊文法の一章節が短文詩なので解読ができました、解読で判明したことは論語を織り交ぜていることでした。

 

異論、反論、疑問がありましたら、コメントをいただければ幸いです。

 

07 魏志倭人伝、東南至奴国 百里 官日兕馬觚 副日卑奴母離 有二萬餘戸 百里 露田 里は面積 Ⅱ。

07  東南至奴国 百里 官日兕馬觚 副日卑奴母離 有二萬餘戸

<所在地>

陳寿の記述で実測距離は経典(四書五経)の漢文(借字)特殊文法活用で実測距離は積算算出して表れます。

 

神埼郡から東南の國境が筑紫川支流の宝満川合流地点(福岡県久留米市小森野と佐賀県鳥栖市下野町の境界)

奴國の西側國境は宝満川流域が境界、北側は現、筑紫野市で東側は甘木市の小石原川の流域西側が國境、南側は筑紫川本流の北側。

現在の福岡県朝倉市魏志倭人伝の記述で奴國、不彌國にまたがっています。

 

<奴國の想定役割>

奴国=奴婢國=邪馬壹(臺)國の奴婢兵、農耕耕作、武器製造、銅鏡製造、絹織物(刺繡、染色)、玉の研磨等の産業労働調達と下級兵隊の國。

魏國、邪馬壹(臺)國へ上納するための織物産業に必要な原料栽培(注 1 綿畑、麻栽培、紵=からむし、栽培、養蚕に必要な桑の栽培。)

魏國、邪馬壹(臺)國へ上納するための織物産業に必要な原料採掘(注 2 染色=赤色=辰砂、べんがら。金絲=金加工、採掘)(注 3 後記に記述されている南人による鉱物採掘)

 

<鉱物の採掘場所>

金、銀鉱山=日田郡の金山=鯛生金山を中心として県境に沿った地域には、日田郡南部金山地帯が存在した。叉、星野鉱山(八女市)が存在した。

水銀、辰砂=波佐見水銀鉱山(長崎県)、相ノ浦鉱山(長崎, 大潟鉱山)、 平戸(長崎, 松浦)、因尾鉱山(大分, いんび) 、佐伯鉱山(大分, 鶴望鉱山つるみ, 大分鉱山Hg), 千怒鉱山(大分, ちぬ)

 

鉄鉱石、砂鉄=(注 1狗邪韓国=馬韓辰韓弁韓=当時、邪馬壹(臺)國の属國=魏志倭人伝の後記、記述有り)調達、(注 2 伊都國、佐賀県嘉瀬川の砂鉄=チタン磁鉄)

 

<武器>

刀、剣、盾、矛、戟(げき)弓、矢(箭)=鉄矢じり、骨矢じり等、鎧=防御服(身甲等、鉢巻)、その他=旗、璋旗、馬具。

武器、服装(鎧等)製造数量=魏志倭人伝の後記、記述有り)=およそ10万兵員分一式製造

<古代中国の武器参考>

古代中国の戦争

http://paulbeauchamp.org/

 

<閲覧していただく皆さまへ>

武器の製造について。

後記に記述されている一章節、邪馬壹(臺)国と狗奴國と戦になります、邪馬壹(臺)国が自衛防衛10万人が配備されます。

その際にあらゆる武器装備が必要になります。

想定製造数量(刀、剣=10萬口(口=数量)、盾、矛、戟(げき)=(少ない数量で4萬本)

弓、矢(箭)=鉄矢じり、骨矢じり等においては=10萬人の0.5割と想定として五千人が弓と矢(箭)を装備。

計算式=五千人分の弓、矢(箭)=五千人分の矢(箭)=敵に対して1日(最低20本として)100日分(3ケ月分、壬申の乱で約1ケ月間)=100萬本

矢(箭)=矢鉄矢じり、骨矢じり、矢(箭)=矢竹=(最低半年穂仕上げ、矯正(火で矯める)、矢羽根(鷹が最上ですが、雉、鴨の羽根5萬羽分

矢(箭)=製鉄、焼き仕上げ=矢鉄矢じり、研磨仕上げ=骨矢じり、矢(箭)矢羽根仕上げ、麻の留め糸、)1日の作業仕上げ=奴國の男子鮮卑1萬人、10本仕上げで100日間。

保存するためには矢の竹材、矢羽根に虫が付き破損するので防虫剤として樟脳が必要になります、魏國の朝貢献上品の品目に記述されています。

魏國の検視は武器の在庫を検分、(武器品目、数量等)を記述報告書を含んでいます。

農耕作業検分(露田の面積=邪馬壹(臺)国の自己申告に相違ないか検分調査書作成)、繊維織物の検分(染色、養蚕等、刺繡作業)城柵建築等、その他(倭人の生活)

 

<注釈>

有二萬餘戸=人口数(注 戸=1家族4人~5人として8萬人~10萬人が居住、労働力。

<注釈>

魏志倭人伝、長里、短理の論争は馬鹿げている、東南至奴国 百里 露田(田んぼ)の面積で距離ではない。

<面積>

百里=露田(田んぼ)の面積

 

東南至奴国 百里 官日兕馬觚 副日卑奴母離 有二萬餘戸

<解読>

<解読 積数算出日時 1>

官日兕馬觚 副日卑奴母離

4月18日、4月19日

<解読 漢文(借字)読下し 2>

 

東南至奴国 百里 官日兕馬觚 副日卑奴母離 有二萬餘戸

 

東南至奴国百里官日兕馬觚副日卑奴母離有二萬餘戸=東南、奴國に至る。

百里(露田=実測)、4月18日、4月19日夕暮れに離れる。奴婢(戸)二萬戸有り。

卑=自分をへりくだっていうことば。奴婢が(兕=水牛(馬)→(借字)奴=ぬ駑=老いたにぶい馬)で(觚=鋤)で耕していました。

<注釈>

奴=(表音借字)=ど=土=領地。(注=漢字の(表音借字)は特殊文法活用で積算算出に影響します、

漢字一句の場合の意味、熟語として記述されている場合で奴の場合(音読み=ぬ、ど)2種の音読みがあり、文脈をよみとり解読します。

母=も(借字)=莫=くれ。夕暮れ。日暮れ。夜。

離=り=はなれる。

魏志倭人伝の記述は単なる旅行記述ではありません、魏国による税の徴収のための国税調査団です、田んぼの面積が奴國は少ないので日数をかけて調査はしていません。

伊都國、不彌國、邪馬壹国 (那國)で取り囲んだ奴國(奴婢國)となります。

 

異論、反論、疑問がありましたら、コメントをいただければ幸いです。

 

 

06 魏志倭人伝、東南陸行 五百里 到伊都國官日爾支副日泄謨觚柄渠觚有千餘戸 丗有王皆統屬女王國郡使往來常所駐 五百里  露田 里は面積 Ⅰ。

魏志倭人伝、長里、短理の論争は馬鹿げている、東南陸行 東南陸行 五百里 到伊都國到伊都國の 五百里 露田(田んぼ)の面積で距離ではない。

魏志倭人伝は単なる紀行記述ではない、魏國による倭國(属國)に対して税を課すための国税調査検分記述。

 

東南陸行 五百里 到伊都國 官日爾支 副日泄謨觚柄渠觚 有千餘戸 丗有王 皆統屬女王國 郡使往來常所駐

<面積>

  五百里150万坪=露田(田んぼ)面積

  標準18ホールゴルフ場 5施設分

 

百里、伊都國、百里 奴國、百里、不彌國=露田(田んぼ)の面積

<距離の場合は基本、餘を記述、実測値は餘がないが例外がある。>

ただし、儒教の経典(四書五経=表音漢字(借字)特殊文法)解読する必要がある。

表音漢字(借字)特殊文法の積数については表音借字が正しい時だけ、積数計算により(千餘里、四千餘戸)と同じ数字が算出できます。実数距離は別の積算で算出します。

<距離>

狗邪韓國、七千餘里。始度一海千餘里、至對馬國、方可四百餘里。又南渡一海千餘里、名曰瀚海、至一大國、方可三百里(実測しているので餘は記述していない。)

又渡一海千餘里、至末廬國。

<実測していない例外 面積>

自郡至女王國、萬二千餘里=自らの女王國の郡をおき、國の領土は一萬二千里=東京都の大田区、世田谷区を合わせた面積。

 

<誤訳通説読み下し>

東南に陸行、500里で伊都国に到る,官は爾支(にき)という。副は泄謨觚(せもこ)柄渠觚(へくこ)という。1000餘戸が有。

世、王が有り、皆、女王国に属する。帯方郡の使者の往来では常に駐する所である。

 

<注釈>

約37万字に及ぶ『三国志』(それに付けられている裴松之〔372~451年〕の注は、本文に匹敵する約36万字)のすべてに目を通すだけではなく、

陳寿の世界観を形成している儒教の経典(四書五経)に通じなければ分からない)と述べている。

 

邪馬壹(臺)国論争は、江戸時代の新井白石本居宣長らに始まり、「邪馬台国畿内説」および「邪馬台国九州説」が現在も論争があとを絶たない。

邪馬壹(臺)国論争は所在地だけが論争され、政争、文化(交易産業)先徒(学校)日常の営みは誤訳だらけで、学者、大学教授等は浅知恵解釈に明け暮れている。

 

< 東南陸行     到伊都國 >

Aルート=積算算出で表れた距離の地域(神埼郡(かんざきぐん)近郊、葛籠城跡、勝尾城筑紫氏遺跡)

吉野ヶ里歴史公園の伊都國(仮説)については現在の経路(国道、県道 )距離計算上は誤差が出る。城郭跡 

神埼郡(かんざきぐん)近郊

勝尾城筑紫氏遺跡

壬子(西暦232年4月9日)伊都國へ到る。

 

<経路>

Bルート

壬子(西暦232年4月6日(5日、平戸泊)6日、出発→(6日、現松浦市泊)7日、出発→(7日、現唐津市内陸県道分岐点泊)8日、出発→(9日、山越え、泊)現多久市経由(10日着、現小城市経由→神埼郡)  

吉野ヶ里歴史公園 伊都國 距離は一致するが、到着日時が遅れる矛盾が起きる。

 

壬子(西暦232年4月10日)伊都國へ到る。

記述に矛盾が起きる、たかが1日、されど1日である。

 

<解読>

東南陸行五百里到伊都國官日爾支副日泄謨觚柄渠觚有千餘戸=東南陸行、(露田=田んぼ)五百里に及び行きわたる、伊都國である。四月九日から四月十六日で離れる。

四月九日から四月十六日で離れる。

 

 

<下記の漢文記述は二つの意味があります。>

<解読 積数算出日時 1>

官日爾支副日泄謨觚柄渠觚

官日爾支=四月九日

副日泄謨=四月十六日

 

<解読 漢文(借字)読下し 2>

爾支(借字)=じし=地子=公田の余地を人民に貸し付けて耕作させ、収穫の5分の1を国家が収納したもの。(注 公と兵、人民との分配率は不明。)

泄謨觚=(注 1泄=えい=少しずつ外へ出る。例:排泄(はいせつ。注 2謨=も=はかる。注 3觚=こ=中国で殷代、周代に使用された青銅製の酒器。器の形。)

柄渠觚=(注 4柄=へい=刀剣や弓などのにぎる部分。てんびん棒。注 5渠=きょ=みぞ。掘り割り。地面を掘って作った水路。小川。注 6觚=前文同意 ) 

 

<解読>

暗渠排水で(泄=途中の水漏れ)を防ぐことに欠かせない勾配を測量するための水平器として觚柄觚の初めて見る道具を使用していた。

<参照図>

水平器

https://ameblo.jp/millimeter-wave/entry-12031894039.html

https://kotobank.jp/word/%E8%A7%9A-61199

<注釈>

四月九日から四月十六日の七日間で国税調査団が詳細検分を行う。

(注1 露田=田んぼの実測測量、南春米の田植え状況、露田の土木技術方法)

(注2 戦の武器の在庫。刀剣等、弓、矢=矢じりの種類等)記述されている國で同等の検分が行われます。)

 

<通説誤訳>

官日爾支、副日泄謨觚柄渠觚=官職ではありません、この後も通説では官職としていますが、でたらめ解読で日本史の計り知れない汚点です。

官(日)爾支、副(日)泄謨觚、柄渠觚=通説解読=(日)は飛ばして誤解読、でたらめに漢文を切り刻む誤解読

 

<注釈>

北魏から隋までは露田(樹木の植わっていないはだかの地の意)とよばれたが,個人に割り当てられた田土の意味でこの語が普及し,唐の田令では正式呼称となった。

 

<解読>

家屋1000餘戸、魏国朝廷の郡使として検視、

<注釈>

田植えの時期となります。

 

<解読>

丗有王 皆統屬女王國 郡使往來常所駐=(伊都國)は三十才過ぎの王で、皆、卑弥呼女王に統属している、常に(倭國)の属國郡使が常駐している。

叉、五百兵が警護している。

 

<解読について補足>

裴松之陳寿の世界観を形成している儒教の経典(四書五経)に通じなければ分からない)と述べている。

陳寿は表音漢字(借字)特殊文法活用で綿密に記述しています、さすが古代中国の才人です。倭国(日本)の史記古事記、日本書記)においては、残念ですが音読み、訓読みが入り乱れやや文法が崩れています。

 

加筆や編集されていない万葉集に属している史記雄略天皇額田王天武天皇の詩)は倭国漢文特殊文法にアレンジしていますが美しい文法になります。

 

万葉集で代表歌人柿本人麻呂山上憶良、(太 安万侶=古事記、日本書記)記述の表音漢字(借字)特殊文法活用は乱れていて解読に困難を極めます。

 

古代中国の唐時代の末期の史記も同様に北方民族の政権でこの文法は消滅したようです、日本では平安時代清少納言の歌(かなの返歌)を検証した結果、解読しての返歌でした。

05 魏志倭人伝 又渡一海 千餘里 至末盧國 長崎県平戸市 港 着岸。

約37万字に及ぶ『三国志』(それに付けられている裴松之〔372~451年〕の注は、本文に匹敵する約36万字)のすべてに目を通すだけではなく、陳寿の世界観を形成している儒教の経典(四書五経)に通じなければ分からない)と述べている。

魏志倭人伝陳寿の記述は表音漢字(借字)特殊文法で表音漢字活用や論語活用の引用を用いた記述で成り立っている。

又渡一海 千餘里 至末盧國 有四千餘戸 濱山海居 草木茂盛行不見前人 好捕魚鰒 水無深淺皆沉没取之

 

<注釈 1>

通説で解釈されている(鰒=あわび)はなぜ(鮑=あわび)の漢字を記述しなかったのか、疑問を持ちませんか。

陳寿の記述は誤字だらけだの、倭國の詳細を熟知していないなどと馬鹿げた論法で勝手な解釈で記述を読み下している学者、研究者の浅知恵は嘆かわしい。

 

又渡一海 千餘里 至末盧國 有四千餘戸 濱山海居 草木茂盛行不見前人 好捕魚鰒 水無深淺皆沉没取之

<事例として魏志倭人伝の随所記述されている一例>

表音漢字(借字)特殊文法の表音漢字活用

鮑=訓読み=あわび、(音読み=ホウでは解読文脈活用が成り立たない。

鰒=訓読み=あわび、(音読み=フクでは解読文脈活用。(鮑=フク=楅=椱=フク、フウ=鉜=馮=フウ、ヒョウ=平=ヒョウ、ビョウ=錨)

 

<注釈 2>

表音漢字(借字)特殊文法の積数については表音借字が正しい時だけ、積数計算により(千餘里、四千餘戸)と同じ数字が算出できます。実数距離は別の積算で算出します。

積算算出により解読の第一歩になり、表音漢字(借字)特殊文法の表音漢字活用で文脈に繫げますが、陳寿の記述史記文法の深層の意味までは迫れません。

随所に論語漢文が存在してとても難解です。

頭脳明晰な陳寿魏志倭人伝の倭國(属國)の国税庁調査記述に必要な漢文解読は可能になります。

 

<浅知恵解釈事例>

(注1倭=音読み=い)(注2 邪馬壹國=やまいちこく。やまいこく=表音漢字(借字)特殊文法の表音漢字活用できない。

邪馬壹國=(やまいちこく。)親魏倭王と認められることで邪馬臺國=(やまたいこく)

臺=天子や皇族などに対する敬語。朝廷、役所。

<注釈 3>

邪馬壹国=やまいちこく。表音漢字(借字)特殊文法の表音漢字活用で陳寿の略歴、倭国=全土=九州(魏志倭人伝のの九國が表れる)

又渡一海 千餘里 至末盧國 有四千餘戸 濱山海居 草木茂盛行不見前人 好捕魚鰒 水無深淺皆沉没取之

<解読>

232 年 4 月 5 日 申の刻は午後4時着岸

又渡一海千餘里至末盧國有四千餘戸=叉一つの海を渡る、千余里末慮国(平戸=ビョウコ=訓=ひらと)に着、四千余戸の家有。

<注釈>

古代倭國の時代から江戸時代の鎖国時の諸外国の交易港は長崎県平戸市(港)である。

<補足>

狗邪韓國→對海國→一大國→末盧國 (航行の出航は3月20日揚子江の川の逆流で有名な大潮に出航して潮流を見極めながら倭国に着岸しています。

魏國への朝貢使節団400名と魏國の属國国税調査団(調査人員数不明)ですが距離は正確を期しています

 

有國、儒國、裸國、黒齒國 の交易港は奈良時代の3度の巨大地震、江戸時代の巨大地震で壊滅するまでは現在の大分県別府港になり(注、古代倭國名称=淡海國)

淡海國=根拠=慶長大地震(慶長伊予地震、慶長豊後地震)、以前は豊富な泉が湧き吃水域で現在も泉が湧いて城下鰈が有名です。

南からの交易は潮流(親潮)の関係で現在の大分県別府港でフランシスコザビエルもこの地に着岸。

杵築市=杵築神社=?杵築大社

古代より杵築大社(きずきたいしゃ、きずきのおおやしろ)と呼ばれていたが、1871年明治4年)に出雲大社と改称した。

 

<解読>

濱山海居草木茂盛行不見前人好捕魚鰒水無深淺皆沉没取之=辺境の山海では草木が茂り、そまつな身なりで髪を束ねた姥母が魚、鰒を捕るのに短剣ですき返していた。

捕った魚、鰒は竹で組んだ生簀に沈めている、皆、一族のようだ。

皆に頼み、手に取って縄を結び七隻の錨を下ろす、午後4時に着岸。

取=とる、手に持つ。

 

<浅知恵解釈事例>

叉、一海を渡る。1000餘里、末廬国に至る。4000餘戸有り、山海に沿って住む。草木が茂り、前を行く人が見えない。

魚や鰒を捕るのが(巧み=漢字が無い)である。水の浅い深いによらず、皆が泳ぎ潜って取っている。

一大國→末盧國の距離の論争、末盧國を唐津市近隣と好き勝手な解釈が馬鹿まるだしである、叉、短里換算を持ち出し無理やりこじつけるお粗末さ。

一大國→末盧國の距離の論争、末盧國は1000里だと宗像市近隣と好き勝手な方角で解釈し、こじつけは馬鹿まるだしである。

<注釈>

申の刻は午後4時

積数=寧波船七隻

<末盧國→伊都國に向けて魏國の国税調査に入るための経路>

Aルート

壬子(西暦232年4月6日(5日、平戸泊)6日、出発→(6日、現松浦市泊)7日、出発→(7日、現伊万里市泊)8日、出発→現武雄市経由(9日、現小城市経由)→神埼郡(かんざきぐん)  

<東南陸行 五百里 到伊都國>

<経路>

Aルート=積算算出で表れた距離の地域(神埼郡(かんざきぐん)近郊、葛籠城跡、勝尾城筑紫氏遺跡)

吉野ヶ里歴史公園の伊都國(仮説)については現在の経路(国道、県道 )距離計算上は誤差が出る。城郭跡 

神埼郡(かんざきぐん)近郊

葛籠城跡

勝尾城筑紫氏遺跡

壬子(西暦232年4月9日)伊都國へ到る。

 

<経路>

Bルート

壬子(西暦232年4月6日(5日、平戸泊)6日、出発→(6日、現松浦市泊)7日、出発→(7日、現唐津市内陸県道分岐点泊)8日、出発→(9日、山越え、泊)現多久市経由(10日着、現小城市経由→神埼郡)  

吉野ヶ里歴史公園 伊都國 距離は一致するが、到着日時が遅れる矛盾が起きる。

壬子(西暦232年4月10日)伊都國へ到る。

記述に矛盾が起きる、たかが1日、されど1日である。

 

<結論>

壬子(西暦232年4月9日)伊都國へ到る。記述の解読日時

学者、研究者の論法で陳寿の記述は不完全と決めつけて、勝手に仮定、想定、(と考える)としている。

陳寿の記述解読の結論のみとします。

魏志倭人伝陳寿の記述は表音漢字(借字)特殊文法で表音漢字活用や論語活用の引用を用いた記述で成り立っている。

この解読法は漢文学者、古代歴史学者と討論しても正しい解読法なので論破できます。

 

<次回予告>

<解読>

東南陸行 五百里 到伊都國=東南陸行、五百里=露田の面積(田んぼの面積)、到伊都國=伊都國の都に到る。

東南と異なる方角のこじつけ解釈や、幾内説→(五百里=距離誤訳)で解釈した邪馬壹(臺)国の所在地のねじまげは破綻します。

 

04 魏志倭人伝 又南渡一海 千餘里 名日瀚海 至一大國 甲骨文字の殷の時代から漢文記述の際に採用されている漢文特殊文法により記述されている。

東京大学京都大学の歴代大学教授、その他の大学研究者等の浅知恵による解釈、読み下しは日本古代史の大罪であり、読む価値はない。

唐時代以後、この文法は中国においても時代の背景が影響し消滅したと思われる。

近代の漢文解釈では永遠に解き明かすことはできません、ドイツの暗号エニグマのようになっている。

 

定説は読み下しが誤読表音なので解読できません。

<でたらめ事例辞書>

日本語の助詞

日本語においては、単語に付加し自立語同士の関係を表したり、対象を表したりする語句の総称。付属語。活用しない。

俗に「てにをは」(弖爾乎波・天爾遠波)か「てにはを」(弖爾波乎)と呼ばれるが、これは漢文の読み下しの補助として漢字の四隅につけられたヲコト点を左下から右回りに読んだ時に「てにはを」となることに因るものである。

<注釈>

(弖爾乎波・天爾遠波)=漢文特殊文法の積算に採用する漢文

<注釈>

解読するには漢字(仮名、借字)表音音読みで解読して漢字(仮名、借字)表音が正しい場合だけ積数(千餘里=1000、有三千許家=3000)が表れる。

積数(千餘里=1000、有三千許家=3000)にならない場合は漢字(仮名、借字)表音が間違っていることになり、熟語(仮名、借字)、意味が誤訳となります。

魏志倭人伝の漢文時述は論語も引用しています、叉、古代中国の軍事用語(属、率等)の数を乗法、減法、除法を用いた積算で兵数が表れます。

 

実(里)は漢文特殊文法の積算数式で表れる。

1 里=435mで積算すると正しい距離が算出できます。

魏志倭人伝は魏國が属國の倭國に対して行った国税調査報告書の記述書である。

 

魏志倭人伝の解読を完了した結果、定説があまりにもヒドイのでブログを掲載しました。

 

近代の古代歴史学者、研究者、大学教授等がでたらめな解釈を広め拡散していることは嘆かわしい。

学者、研究者は読み解けないと陳寿の誤記述としてし勝手な解釈を行っている馬鹿な論法。

古事記、日本書記、万葉集等は倭國化(日本化=国産化した漢文特殊文法を採用しています、弖=学者が解読できない漢字、積数計算に使用する。)

<注釈>

陳寿の記述の魏志倭人伝は魏晋代の 1 里=435mが採用されている。

<定説>

漢代以前から書き加えられながら、教科書として使われてきたためか、『九章算術』の距離に関わる例題には、1 里=405m~435m 程度の漢魏晋代の里の他に、1 里=67.5~72.5m 程度の(短)里が「但し書きなしに」使われている.

三国志』にも短里と長里の混用があるとされている。

 

又南渡一海 千餘里 名日瀚海 至一大國 官亦日卑狗 副日卑奴母離 方可三百里 多竹木叢林 有三千許家 差有田地 耕田猶不足食 亦南北市糴

<解読>

又南渡一海千餘里名日瀚海至一大國=叉、南に一海を渡る、千餘里、一大國に至る。

<注釈>

定説誤訳の官職名称は間違い、年月日の特殊文法。

官亦日卑狗副日卑奴母離方可三百里=西暦232年3月29日、4月4日出航、(一大國=壱岐島、海岸線長距離300里=約132km)

<注釈>

壱岐島若宮島、郷ノ浦大島、郷ノ浦長島、原島)を除く海岸線長距離=300里=約132km

 

<解読>

多竹木叢林有三千許家差有田地耕田猶不足食=竹林、雑木林が多く、三千(許)ばかりの家屋が存在する、いくらかの田、畑があるがあまりにも田が少ないので食は不足。

亦南北市糴=叉、穀物を買い入れ寧波船に乗船する際に、南管、北管で演奏の送迎を受ける。

<注釈>

亦南北市糴=南北=方角はとんでもない誤訳

器楽には南管という弦楽器を主体とした優雅な合奏と北管といわれシャーナイ(スルナイ)や胡弓を主楽器とする豪放な合奏が代表的である。

 

<補足>

東京大学京都大学の歴代大学教授、その他の大学研究者等の浅知恵による解釈、読み下しは日本古代史の大罪であり、読む価値はない。

古代漢文史記は借字、借字と論じていながら解読できない愚かさ。

安本美典氏の論法は当たらずとも遠からず、長浜浩明氏が歴史学者の論法を批判するは応援したいが、魏志倭人伝、神武東征はずれている。

<解読事例>

難升米(なしめ、生没年不詳)邪馬台国卑弥呼が魏に使わした大夫。

誤訳、でたらめ

難升米=なんしょうまい=南春米=なんしょうまい=春米=大炊寮(おおいりょう)や内蔵寮(くらりょう)に納めた米。

 

魏志倭人伝』には「男子皆黥面文身」との記述がある。黥面とは顔に入れ墨を施すことであり、文身とは身体に入れ墨を施すことであるため、これが現在確認されている日本の入れ墨の最古の記録である。

誤訳、でたらめ

黥=(直訳=いれずみ。罪人の顔にいれずみをする)

黥=(表音借字=げい=芸=わざ。技術。学問。知識。身につけた技能。)

 

魏志倭人伝の解釈がすべて事例と同様なので解読は永遠に無理である。

 

 

 

 

01 魏志倭人 (1 伝倭人在帶方東南大海之中)(2 從郡至倭 循海岸水行 歴韓国)(3 始度一海 千餘里 至對海國) 国税調査検分報告の記述書である。

歴史学者魏志倭人伝を誤訳する大学教授、研究者の浅い誤訳著作物が氾濫は目に余る、古事記、日本書記、万葉集、甲骨文字も同様である。

 

倭人在帶方東南大海之中 依山㠀為國邑 舊百餘國 漢時有朝見者 今使譯所通三十國

 

<誤訳定説>

倭人は在中していた大国に寄り掛かる国は帯方郡の東南に百余国、漢時代の旧帯方には朝貢する使者がおおよそ三十国

倭人帯方郡の東南、大海の中に在り、山島に依って国邑としている。もとは百余国、漢の時に朝見する者があり、今、30国が使者を通わせている。

 

<解読>

倭人が在住している所は、帯方郡より東南の大海の中で(依山=緯線=いせん)、東夷國で昔の漢の時代は百余国有り今は三十國で魏に従っている

今は魏国の天子の属国で三十國の駅所を通り倭人が四百余人で朝貢にきている、

 

<注釈>

依山=いせん=緯線=いせん=前漢の「大戴礼‐易本命」「凡地東西為レ緯、南北為レ経」などにみられるように大地の方向を指すようになる。

特殊漢文文法で算出される積数、四百という数は古代中国では中国全州を表す、その意味において倭人朝貢する際の四百余人は倭國を代表して朝貢しているということになる。

國邑舊=(注1國邑=天子・諸侯・大夫の領地。)(注2舊=昔から、過去から、以前から。)

 

從郡至倭 循海岸水行 歴韓国 乍南乍東 到其北岸狗邪韓國 七千餘里

 

<誤訳定説>

郡より倭に至るには、海岸に循って水行する。韓国を経るのに、時に南、時に東。

其、北岸の狗邪韓国に到る、7000余里。

 

<解読>

 

倭國の従郡に向け至るには、寧波船で(北の方角から北北西に進路を海岸沿いに回り込み水行し、(歴=暦=天体の運行をもとに)

韓國に向け進路を(乍南乍東=南東に進むと思う。(注、乍□乍□=重ねて使うと=だろう、しかと思う。

其、狗邪韓國に七隻で北岸に到る、七千里。

 

<注釈>

(歴=暦=天体の運行をもとに)

特殊漢文文法で算出される積数=七隻

乍南乍東=漢文特殊文法の積数の矛盾する関係にある意味の打消し。

 

始度一海 千餘里 至對海國 其大官日卑狗 副日卑奴母離 所居絶㠀 方可四百餘里 土地山險多深林 道路如禽鹿徑 有千餘戸 無良田食海物自活 乗船南北市糴

 

<誤訳定説>

出典: フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』

始めて一海を渡る。1000余里。対馬国に至る。その大官は卑狗(ひこ)といい、副は卑奴母離(ひなもり)という。絶島で400余里四方。土地は、山が険しく、深い林が多い。道は獣道(けものみち)のようである。1000余戸が有る。良い田畑がなく、海産物で自活。船で南北の市へいく。

<解読>

始度一海 千餘里 至對海國 其大官日卑狗 副日卑奴母離=新に一海を渡ること千餘里、對海國に至る、其、(大官日=春分=3月20日)に出入航。

<注釈>

其大官日卑狗 副日卑奴母離=定説誤訳の官職名称は間違い、年月日の特殊文法。

春分=232年出入航3月20日~出航3月27日と現れましたが、検証のため春分日を数式で計算した場合は出入航日が3月22日(232年春分数値)

 

<解読>

所居絶㠀 方可四百餘里 土地山險多深林 道路如禽鹿徑 有千餘戸=(對海國)は(絶㠀=ぜついき=遠く跳ねれていて限られた領土で國全体周囲はおおよそ四百餘里)160km

土地は山が険しく、多くは深い林で、細い道路には雉(禽)、鹿が行き交い、人家は千餘戸。

無良田食海物自活=良い田(畑)は無く、海産物で自活して食している。

乗船南北市糴=穀物を買い入れ寧波船に乗船する際に、南管、北管で演奏の送迎を受ける。

<注釈>

亦南北市糴=南北=方角はとんでもない誤訳

器楽には南管という弦楽器を主体とした優雅な合奏と北管といわれシャーナイ(スルナイ)や胡弓を主楽器とする豪放な合奏が代表的である