魏志倭人伝 卑弥呼 古事記 日本書記 万葉集 甲骨文字 以音 五経基軸文法による解読

漢文史記は五経文法が採用されています、この五経文法は殷時代の甲骨文字(漢字変換)でも採用されており、古代中国は唐時代の末期で消滅、日本では奈良時代(西暦720年)頃で消滅して現在に至っています、この漢文史記を一字一句解読したブログになります。

06 魏志倭人伝、東南陸行 五百里 到伊都國官日爾支副日泄謨觚柄渠觚有千餘戸 丗有王皆統屬女王國郡使往來常所駐 五百里  露田 里は面積 Ⅰ。

魏志倭人伝、長里、短理の論争は馬鹿げている、東南陸行 東南陸行 五百里 到伊都國到伊都國の 五百里 露田(田んぼ)の面積で距離ではない。

魏志倭人伝は単なる紀行記述ではない、魏國による倭國(属國)に対して税を課すための国税調査検分記述。

 

東南陸行 五百里 到伊都國 官日爾支 副日泄謨觚柄渠觚 有千餘戸 丗有王 皆統屬女王國 郡使往來常所駐

<面積>

  五百里150万坪=露田(田んぼ)面積

  標準18ホールゴルフ場 5施設分

 

百里、伊都國、百里 奴國、百里、不彌國=露田(田んぼ)の面積

<距離の場合は基本、餘を記述、実測値は餘がないが例外がある。>

ただし、儒教の経典(四書五経=表音漢字(借字)特殊文法)解読する必要がある。

表音漢字(借字)特殊文法の積数については表音借字が正しい時だけ、積数計算により(千餘里、四千餘戸)と同じ数字が算出できます。実数距離は別の積算で算出します。

<距離>

狗邪韓國、七千餘里。始度一海千餘里、至對馬國、方可四百餘里。又南渡一海千餘里、名曰瀚海、至一大國、方可三百里(実測しているので餘は記述していない。)

又渡一海千餘里、至末廬國。

<実測していない例外 面積>

自郡至女王國、萬二千餘里=自らの女王國の郡をおき、國の領土は一萬二千里=東京都の大田区、世田谷区を合わせた面積。

 

<誤訳通説読み下し>

東南に陸行、500里で伊都国に到る,官は爾支(にき)という。副は泄謨觚(せもこ)柄渠觚(へくこ)という。1000餘戸が有。

世、王が有り、皆、女王国に属する。帯方郡の使者の往来では常に駐する所である。

 

<注釈>

約37万字に及ぶ『三国志』(それに付けられている裴松之〔372~451年〕の注は、本文に匹敵する約36万字)のすべてに目を通すだけではなく、

陳寿の世界観を形成している儒教の経典(四書五経)に通じなければ分からない)と述べている。

 

邪馬壹(臺)国論争は、江戸時代の新井白石本居宣長らに始まり、「邪馬台国畿内説」および「邪馬台国九州説」が現在も論争があとを絶たない。

邪馬壹(臺)国論争は所在地だけが論争され、政争、文化(交易産業)先徒(学校)日常の営みは誤訳だらけで、学者、大学教授等は浅知恵解釈に明け暮れている。

 

< 東南陸行     到伊都國 >

Aルート=積算算出で表れた距離の地域(神埼郡(かんざきぐん)近郊、葛籠城跡、勝尾城筑紫氏遺跡)

吉野ヶ里歴史公園の伊都國(仮説)については現在の経路(国道、県道 )距離計算上は誤差が出る。城郭跡 

神埼郡(かんざきぐん)近郊

勝尾城筑紫氏遺跡

壬子(西暦232年4月9日)伊都國へ到る。

 

<経路>

Bルート

壬子(西暦232年4月6日(5日、平戸泊)6日、出発→(6日、現松浦市泊)7日、出発→(7日、現唐津市内陸県道分岐点泊)8日、出発→(9日、山越え、泊)現多久市経由(10日着、現小城市経由→神埼郡)  

吉野ヶ里歴史公園 伊都國 距離は一致するが、到着日時が遅れる矛盾が起きる。

 

壬子(西暦232年4月10日)伊都國へ到る。

記述に矛盾が起きる、たかが1日、されど1日である。

 

<解読>

東南陸行五百里到伊都國官日爾支副日泄謨觚柄渠觚有千餘戸=東南陸行、(露田=田んぼ)五百里に及び行きわたる、伊都國である。四月九日から四月十六日で離れる。

四月九日から四月十六日で離れる。

 

 

<下記の漢文記述は二つの意味があります。>

<解読 積数算出日時 1>

官日爾支副日泄謨觚柄渠觚

官日爾支=四月九日

副日泄謨=四月十六日

 

<解読 漢文(借字)読下し 2>

爾支(借字)=じし=地子=公田の余地を人民に貸し付けて耕作させ、収穫の5分の1を国家が収納したもの。(注 公と兵、人民との分配率は不明。)

泄謨觚=(注 1泄=えい=少しずつ外へ出る。例:排泄(はいせつ。注 2謨=も=はかる。注 3觚=こ=中国で殷代、周代に使用された青銅製の酒器。器の形。)

柄渠觚=(注 4柄=へい=刀剣や弓などのにぎる部分。てんびん棒。注 5渠=きょ=みぞ。掘り割り。地面を掘って作った水路。小川。注 6觚=前文同意 ) 

 

<解読>

暗渠排水で(泄=途中の水漏れ)を防ぐことに欠かせない勾配を測量するための水平器として觚柄觚の初めて見る道具を使用していた。

<参照図>

水平器

https://ameblo.jp/millimeter-wave/entry-12031894039.html

https://kotobank.jp/word/%E8%A7%9A-61199

<注釈>

四月九日から四月十六日の七日間で国税調査団が詳細検分を行う。

(注1 露田=田んぼの実測測量、南春米の田植え状況、露田の土木技術方法)

(注2 戦の武器の在庫。刀剣等、弓、矢=矢じりの種類等)記述されている國で同等の検分が行われます。)

 

<通説誤訳>

官日爾支、副日泄謨觚柄渠觚=官職ではありません、この後も通説では官職としていますが、でたらめ解読で日本史の計り知れない汚点です。

官(日)爾支、副(日)泄謨觚、柄渠觚=通説解読=(日)は飛ばして誤解読、でたらめに漢文を切り刻む誤解読

 

<注釈>

北魏から隋までは露田(樹木の植わっていないはだかの地の意)とよばれたが,個人に割り当てられた田土の意味でこの語が普及し,唐の田令では正式呼称となった。

 

<解読>

家屋1000餘戸、魏国朝廷の郡使として検視、

<注釈>

田植えの時期となります。

 

<解読>

丗有王 皆統屬女王國 郡使往來常所駐=(伊都國)は三十才過ぎの王で、皆、卑弥呼女王に統属している、常に(倭國)の属國郡使が常駐している。

叉、五百兵が警護している。

 

<解読について補足>

裴松之陳寿の世界観を形成している儒教の経典(四書五経)に通じなければ分からない)と述べている。

陳寿は表音漢字(借字)特殊文法活用で綿密に記述しています、さすが古代中国の才人です。倭国(日本)の史記古事記、日本書記)においては、残念ですが音読み、訓読みが入り乱れやや文法が崩れています。

 

加筆や編集されていない万葉集に属している史記雄略天皇額田王天武天皇の詩)は倭国漢文特殊文法にアレンジしていますが美しい文法になります。

 

万葉集で代表歌人柿本人麻呂山上憶良、(太 安万侶=古事記、日本書記)記述の表音漢字(借字)特殊文法活用は乱れていて解読に困難を極めます。

 

古代中国の唐時代の末期の史記も同様に北方民族の政権でこの文法は消滅したようです、日本では平安時代清少納言の歌(かなの返歌)を検証した結果、解読しての返歌でした。