魏志倭人伝 卑弥呼 古事記 日本書記 万葉集 甲骨文字 以音 五経基軸文法による解読

漢文史記は五経文法が採用されています、この五経文法は殷時代の甲骨文字(漢字変換)でも採用されており、古代中国は唐時代の末期で消滅、日本では奈良時代(西暦720年)頃で消滅して現在に至っています、この漢文史記を一字一句解読したブログになります。

05 魏志倭人伝 又渡一海 千餘里 至末盧國 長崎県平戸市 港 着岸。

約37万字に及ぶ『三国志』(それに付けられている裴松之〔372~451年〕の注は、本文に匹敵する約36万字)のすべてに目を通すだけではなく、陳寿の世界観を形成している儒教の経典(四書五経)に通じなければ分からない)と述べている。

魏志倭人伝陳寿の記述は表音漢字(借字)特殊文法で表音漢字活用や論語活用の引用を用いた記述で成り立っている。

又渡一海 千餘里 至末盧國 有四千餘戸 濱山海居 草木茂盛行不見前人 好捕魚鰒 水無深淺皆沉没取之

 

<注釈 1>

通説で解釈されている(鰒=あわび)はなぜ(鮑=あわび)の漢字を記述しなかったのか、疑問を持ちませんか。

陳寿の記述は誤字だらけだの、倭國の詳細を熟知していないなどと馬鹿げた論法で勝手な解釈で記述を読み下している学者、研究者の浅知恵は嘆かわしい。

 

又渡一海 千餘里 至末盧國 有四千餘戸 濱山海居 草木茂盛行不見前人 好捕魚鰒 水無深淺皆沉没取之

<事例として魏志倭人伝の随所記述されている一例>

表音漢字(借字)特殊文法の表音漢字活用

鮑=訓読み=あわび、(音読み=ホウでは解読文脈活用が成り立たない。

鰒=訓読み=あわび、(音読み=フクでは解読文脈活用。(鮑=フク=楅=椱=フク、フウ=鉜=馮=フウ、ヒョウ=平=ヒョウ、ビョウ=錨)

 

<注釈 2>

表音漢字(借字)特殊文法の積数については表音借字が正しい時だけ、積数計算により(千餘里、四千餘戸)と同じ数字が算出できます。実数距離は別の積算で算出します。

積算算出により解読の第一歩になり、表音漢字(借字)特殊文法の表音漢字活用で文脈に繫げますが、陳寿の記述史記文法の深層の意味までは迫れません。

随所に論語漢文が存在してとても難解です。

頭脳明晰な陳寿魏志倭人伝の倭國(属國)の国税庁調査記述に必要な漢文解読は可能になります。

 

<浅知恵解釈事例>

(注1倭=音読み=い)(注2 邪馬壹國=やまいちこく。やまいこく=表音漢字(借字)特殊文法の表音漢字活用できない。

邪馬壹國=(やまいちこく。)親魏倭王と認められることで邪馬臺國=(やまたいこく)

臺=天子や皇族などに対する敬語。朝廷、役所。

<注釈 3>

邪馬壹国=やまいちこく。表音漢字(借字)特殊文法の表音漢字活用で陳寿の略歴、倭国=全土=九州(魏志倭人伝のの九國が表れる)

又渡一海 千餘里 至末盧國 有四千餘戸 濱山海居 草木茂盛行不見前人 好捕魚鰒 水無深淺皆沉没取之

<解読>

232 年 4 月 5 日 申の刻は午後4時着岸

又渡一海千餘里至末盧國有四千餘戸=叉一つの海を渡る、千余里末慮国(平戸=ビョウコ=訓=ひらと)に着、四千余戸の家有。

<注釈>

古代倭國の時代から江戸時代の鎖国時の諸外国の交易港は長崎県平戸市(港)である。

<補足>

狗邪韓國→對海國→一大國→末盧國 (航行の出航は3月20日揚子江の川の逆流で有名な大潮に出航して潮流を見極めながら倭国に着岸しています。

魏國への朝貢使節団400名と魏國の属國国税調査団(調査人員数不明)ですが距離は正確を期しています

 

有國、儒國、裸國、黒齒國 の交易港は奈良時代の3度の巨大地震、江戸時代の巨大地震で壊滅するまでは現在の大分県別府港になり(注、古代倭國名称=淡海國)

淡海國=根拠=慶長大地震(慶長伊予地震、慶長豊後地震)、以前は豊富な泉が湧き吃水域で現在も泉が湧いて城下鰈が有名です。

南からの交易は潮流(親潮)の関係で現在の大分県別府港でフランシスコザビエルもこの地に着岸。

杵築市=杵築神社=?杵築大社

古代より杵築大社(きずきたいしゃ、きずきのおおやしろ)と呼ばれていたが、1871年明治4年)に出雲大社と改称した。

 

<解読>

濱山海居草木茂盛行不見前人好捕魚鰒水無深淺皆沉没取之=辺境の山海では草木が茂り、そまつな身なりで髪を束ねた姥母が魚、鰒を捕るのに短剣ですき返していた。

捕った魚、鰒は竹で組んだ生簀に沈めている、皆、一族のようだ。

皆に頼み、手に取って縄を結び七隻の錨を下ろす、午後4時に着岸。

取=とる、手に持つ。

 

<浅知恵解釈事例>

叉、一海を渡る。1000餘里、末廬国に至る。4000餘戸有り、山海に沿って住む。草木が茂り、前を行く人が見えない。

魚や鰒を捕るのが(巧み=漢字が無い)である。水の浅い深いによらず、皆が泳ぎ潜って取っている。

一大國→末盧國の距離の論争、末盧國を唐津市近隣と好き勝手な解釈が馬鹿まるだしである、叉、短里換算を持ち出し無理やりこじつけるお粗末さ。

一大國→末盧國の距離の論争、末盧國は1000里だと宗像市近隣と好き勝手な方角で解釈し、こじつけは馬鹿まるだしである。

<注釈>

申の刻は午後4時

積数=寧波船七隻

<末盧國→伊都國に向けて魏國の国税調査に入るための経路>

Aルート

壬子(西暦232年4月6日(5日、平戸泊)6日、出発→(6日、現松浦市泊)7日、出発→(7日、現伊万里市泊)8日、出発→現武雄市経由(9日、現小城市経由)→神埼郡(かんざきぐん)  

<東南陸行 五百里 到伊都國>

<経路>

Aルート=積算算出で表れた距離の地域(神埼郡(かんざきぐん)近郊、葛籠城跡、勝尾城筑紫氏遺跡)

吉野ヶ里歴史公園の伊都國(仮説)については現在の経路(国道、県道 )距離計算上は誤差が出る。城郭跡 

神埼郡(かんざきぐん)近郊

葛籠城跡

勝尾城筑紫氏遺跡

壬子(西暦232年4月9日)伊都國へ到る。

 

<経路>

Bルート

壬子(西暦232年4月6日(5日、平戸泊)6日、出発→(6日、現松浦市泊)7日、出発→(7日、現唐津市内陸県道分岐点泊)8日、出発→(9日、山越え、泊)現多久市経由(10日着、現小城市経由→神埼郡)  

吉野ヶ里歴史公園 伊都國 距離は一致するが、到着日時が遅れる矛盾が起きる。

壬子(西暦232年4月10日)伊都國へ到る。

記述に矛盾が起きる、たかが1日、されど1日である。

 

<結論>

壬子(西暦232年4月9日)伊都國へ到る。記述の解読日時

学者、研究者の論法で陳寿の記述は不完全と決めつけて、勝手に仮定、想定、(と考える)としている。

陳寿の記述解読の結論のみとします。

魏志倭人伝陳寿の記述は表音漢字(借字)特殊文法で表音漢字活用や論語活用の引用を用いた記述で成り立っている。

この解読法は漢文学者、古代歴史学者と討論しても正しい解読法なので論破できます。

 

<次回予告>

<解読>

東南陸行 五百里 到伊都國=東南陸行、五百里=露田の面積(田んぼの面積)、到伊都國=伊都國の都に到る。

東南と異なる方角のこじつけ解釈や、幾内説→(五百里=距離誤訳)で解釈した邪馬壹(臺)国の所在地のねじまげは破綻します。