魏志倭人伝 卑弥呼 古事記 日本書記 万葉集 甲骨文字 以音 五経基軸文法による解読

漢文史記は五経文法が採用されています、この五経文法は殷時代の甲骨文字(漢字変換)でも採用されており、古代中国は唐時代の末期で消滅、日本では奈良時代(西暦720年)頃で消滅して現在に至っています、この漢文史記を一字一句解読したブログになります。

01 魏志倭人 (1 伝倭人在帶方東南大海之中)(2 從郡至倭 循海岸水行 歴韓国)(3 始度一海 千餘里 至對海國) 国税調査検分報告の記述書である。

歴史学者魏志倭人伝を誤訳する大学教授、研究者の浅い誤訳著作物が氾濫は目に余る、古事記、日本書記、万葉集、甲骨文字も同様である。

 

倭人在帶方東南大海之中 依山㠀為國邑 舊百餘國 漢時有朝見者 今使譯所通三十國

 

<誤訳定説>

倭人は在中していた大国に寄り掛かる国は帯方郡の東南に百余国、漢時代の旧帯方には朝貢する使者がおおよそ三十国

倭人帯方郡の東南、大海の中に在り、山島に依って国邑としている。もとは百余国、漢の時に朝見する者があり、今、30国が使者を通わせている。

 

<解読>

倭人が在住している所は、帯方郡より東南の大海の中で(依山=緯線=いせん)、東夷國で昔の漢の時代は百余国有り今は三十國で魏に従っている

今は魏国の天子の属国で三十國の駅所を通り倭人が四百余人で朝貢にきている、

 

<注釈>

依山=いせん=緯線=いせん=前漢の「大戴礼‐易本命」「凡地東西為レ緯、南北為レ経」などにみられるように大地の方向を指すようになる。

特殊漢文文法で算出される積数、四百という数は古代中国では中国全州を表す、その意味において倭人朝貢する際の四百余人は倭國を代表して朝貢しているということになる。

國邑舊=(注1國邑=天子・諸侯・大夫の領地。)(注2舊=昔から、過去から、以前から。)

 

從郡至倭 循海岸水行 歴韓国 乍南乍東 到其北岸狗邪韓國 七千餘里

 

<誤訳定説>

郡より倭に至るには、海岸に循って水行する。韓国を経るのに、時に南、時に東。

其、北岸の狗邪韓国に到る、7000余里。

 

<解読>

 

倭國の従郡に向け至るには、寧波船で(北の方角から北北西に進路を海岸沿いに回り込み水行し、(歴=暦=天体の運行をもとに)

韓國に向け進路を(乍南乍東=南東に進むと思う。(注、乍□乍□=重ねて使うと=だろう、しかと思う。

其、狗邪韓國に七隻で北岸に到る、七千里。

 

<注釈>

(歴=暦=天体の運行をもとに)

特殊漢文文法で算出される積数=七隻

乍南乍東=漢文特殊文法の積数の矛盾する関係にある意味の打消し。

 

始度一海 千餘里 至對海國 其大官日卑狗 副日卑奴母離 所居絶㠀 方可四百餘里 土地山險多深林 道路如禽鹿徑 有千餘戸 無良田食海物自活 乗船南北市糴

 

<誤訳定説>

出典: フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』

始めて一海を渡る。1000余里。対馬国に至る。その大官は卑狗(ひこ)といい、副は卑奴母離(ひなもり)という。絶島で400余里四方。土地は、山が険しく、深い林が多い。道は獣道(けものみち)のようである。1000余戸が有る。良い田畑がなく、海産物で自活。船で南北の市へいく。

<解読>

始度一海 千餘里 至對海國 其大官日卑狗 副日卑奴母離=新に一海を渡ること千餘里、對海國に至る、其、(大官日=春分=3月20日)に出入航。

<注釈>

其大官日卑狗 副日卑奴母離=定説誤訳の官職名称は間違い、年月日の特殊文法。

春分=232年出入航3月20日~出航3月27日と現れましたが、検証のため春分日を数式で計算した場合は出入航日が3月22日(232年春分数値)

 

<解読>

所居絶㠀 方可四百餘里 土地山險多深林 道路如禽鹿徑 有千餘戸=(對海國)は(絶㠀=ぜついき=遠く跳ねれていて限られた領土で國全体周囲はおおよそ四百餘里)160km

土地は山が険しく、多くは深い林で、細い道路には雉(禽)、鹿が行き交い、人家は千餘戸。

無良田食海物自活=良い田(畑)は無く、海産物で自活して食している。

乗船南北市糴=穀物を買い入れ寧波船に乗船する際に、南管、北管で演奏の送迎を受ける。

<注釈>

亦南北市糴=南北=方角はとんでもない誤訳

器楽には南管という弦楽器を主体とした優雅な合奏と北管といわれシャーナイ(スルナイ)や胡弓を主楽器とする豪放な合奏が代表的である