魏志倭人伝 卑弥呼 古事記 日本書記 万葉集 甲骨文字 以音 五経基軸文法による解読

漢文史記は五経文法が採用されています、この五経文法は殷時代の甲骨文字(漢字変換)でも採用されており、古代中国は唐時代の末期で消滅、日本では奈良時代(西暦720年)頃で消滅して現在に至っています、この漢文史記を一字一句解読したブログになります。

04 魏志倭人伝 又南渡一海 千餘里 名日瀚海 至一大國 甲骨文字の殷の時代から漢文記述の際に採用されている漢文特殊文法により記述されている。

東京大学京都大学の歴代大学教授、その他の大学研究者等の浅知恵による解釈、読み下しは日本古代史の大罪であり、読む価値はない。

唐時代以後、この文法は中国においても時代の背景が影響し消滅したと思われる。

近代の漢文解釈では永遠に解き明かすことはできません、ドイツの暗号エニグマのようになっている。

 

定説は読み下しが誤読表音なので解読できません。

<でたらめ事例辞書>

日本語の助詞

日本語においては、単語に付加し自立語同士の関係を表したり、対象を表したりする語句の総称。付属語。活用しない。

俗に「てにをは」(弖爾乎波・天爾遠波)か「てにはを」(弖爾波乎)と呼ばれるが、これは漢文の読み下しの補助として漢字の四隅につけられたヲコト点を左下から右回りに読んだ時に「てにはを」となることに因るものである。

<注釈>

(弖爾乎波・天爾遠波)=漢文特殊文法の積算に採用する漢文

<注釈>

解読するには漢字(仮名、借字)表音音読みで解読して漢字(仮名、借字)表音が正しい場合だけ積数(千餘里=1000、有三千許家=3000)が表れる。

積数(千餘里=1000、有三千許家=3000)にならない場合は漢字(仮名、借字)表音が間違っていることになり、熟語(仮名、借字)、意味が誤訳となります。

魏志倭人伝の漢文時述は論語も引用しています、叉、古代中国の軍事用語(属、率等)の数を乗法、減法、除法を用いた積算で兵数が表れます。

 

実(里)は漢文特殊文法の積算数式で表れる。

1 里=435mで積算すると正しい距離が算出できます。

魏志倭人伝は魏國が属國の倭國に対して行った国税調査報告書の記述書である。

 

魏志倭人伝の解読を完了した結果、定説があまりにもヒドイのでブログを掲載しました。

 

近代の古代歴史学者、研究者、大学教授等がでたらめな解釈を広め拡散していることは嘆かわしい。

学者、研究者は読み解けないと陳寿の誤記述としてし勝手な解釈を行っている馬鹿な論法。

古事記、日本書記、万葉集等は倭國化(日本化=国産化した漢文特殊文法を採用しています、弖=学者が解読できない漢字、積数計算に使用する。)

<注釈>

陳寿の記述の魏志倭人伝は魏晋代の 1 里=435mが採用されている。

<定説>

漢代以前から書き加えられながら、教科書として使われてきたためか、『九章算術』の距離に関わる例題には、1 里=405m~435m 程度の漢魏晋代の里の他に、1 里=67.5~72.5m 程度の(短)里が「但し書きなしに」使われている.

三国志』にも短里と長里の混用があるとされている。

 

又南渡一海 千餘里 名日瀚海 至一大國 官亦日卑狗 副日卑奴母離 方可三百里 多竹木叢林 有三千許家 差有田地 耕田猶不足食 亦南北市糴

<解読>

又南渡一海千餘里名日瀚海至一大國=叉、南に一海を渡る、千餘里、一大國に至る。

<注釈>

定説誤訳の官職名称は間違い、年月日の特殊文法。

官亦日卑狗副日卑奴母離方可三百里=西暦232年3月29日、4月4日出航、(一大國=壱岐島、海岸線長距離300里=約132km)

<注釈>

壱岐島若宮島、郷ノ浦大島、郷ノ浦長島、原島)を除く海岸線長距離=300里=約132km

 

<解読>

多竹木叢林有三千許家差有田地耕田猶不足食=竹林、雑木林が多く、三千(許)ばかりの家屋が存在する、いくらかの田、畑があるがあまりにも田が少ないので食は不足。

亦南北市糴=叉、穀物を買い入れ寧波船に乗船する際に、南管、北管で演奏の送迎を受ける。

<注釈>

亦南北市糴=南北=方角はとんでもない誤訳

器楽には南管という弦楽器を主体とした優雅な合奏と北管といわれシャーナイ(スルナイ)や胡弓を主楽器とする豪放な合奏が代表的である。

 

<補足>

東京大学京都大学の歴代大学教授、その他の大学研究者等の浅知恵による解釈、読み下しは日本古代史の大罪であり、読む価値はない。

古代漢文史記は借字、借字と論じていながら解読できない愚かさ。

安本美典氏の論法は当たらずとも遠からず、長浜浩明氏が歴史学者の論法を批判するは応援したいが、魏志倭人伝、神武東征はずれている。

<解読事例>

難升米(なしめ、生没年不詳)邪馬台国卑弥呼が魏に使わした大夫。

誤訳、でたらめ

難升米=なんしょうまい=南春米=なんしょうまい=春米=大炊寮(おおいりょう)や内蔵寮(くらりょう)に納めた米。

 

魏志倭人伝』には「男子皆黥面文身」との記述がある。黥面とは顔に入れ墨を施すことであり、文身とは身体に入れ墨を施すことであるため、これが現在確認されている日本の入れ墨の最古の記録である。

誤訳、でたらめ

黥=(直訳=いれずみ。罪人の顔にいれずみをする)

黥=(表音借字=げい=芸=わざ。技術。学問。知識。身につけた技能。)

 

魏志倭人伝の解釈がすべて事例と同様なので解読は永遠に無理である。

 

 

 

 

01 魏志倭人 (1 伝倭人在帶方東南大海之中)(2 從郡至倭 循海岸水行 歴韓国)(3 始度一海 千餘里 至對海國) 国税調査検分報告の記述書である。

歴史学者魏志倭人伝を誤訳する大学教授、研究者の浅い誤訳著作物が氾濫は目に余る、古事記、日本書記、万葉集、甲骨文字も同様である。

 

倭人在帶方東南大海之中 依山㠀為國邑 舊百餘國 漢時有朝見者 今使譯所通三十國

 

<誤訳定説>

倭人は在中していた大国に寄り掛かる国は帯方郡の東南に百余国、漢時代の旧帯方には朝貢する使者がおおよそ三十国

倭人帯方郡の東南、大海の中に在り、山島に依って国邑としている。もとは百余国、漢の時に朝見する者があり、今、30国が使者を通わせている。

 

<解読>

倭人が在住している所は、帯方郡より東南の大海の中で(依山=緯線=いせん)、東夷國で昔の漢の時代は百余国有り今は三十國で魏に従っている

今は魏国の天子の属国で三十國の駅所を通り倭人が四百余人で朝貢にきている、

 

<注釈>

依山=いせん=緯線=いせん=前漢の「大戴礼‐易本命」「凡地東西為レ緯、南北為レ経」などにみられるように大地の方向を指すようになる。

特殊漢文文法で算出される積数、四百という数は古代中国では中国全州を表す、その意味において倭人朝貢する際の四百余人は倭國を代表して朝貢しているということになる。

國邑舊=(注1國邑=天子・諸侯・大夫の領地。)(注2舊=昔から、過去から、以前から。)

 

從郡至倭 循海岸水行 歴韓国 乍南乍東 到其北岸狗邪韓國 七千餘里

 

<誤訳定説>

郡より倭に至るには、海岸に循って水行する。韓国を経るのに、時に南、時に東。

其、北岸の狗邪韓国に到る、7000余里。

 

<解読>

 

倭國の従郡に向け至るには、寧波船で(北の方角から北北西に進路を海岸沿いに回り込み水行し、(歴=暦=天体の運行をもとに)

韓國に向け進路を(乍南乍東=南東に進むと思う。(注、乍□乍□=重ねて使うと=だろう、しかと思う。

其、狗邪韓國に七隻で北岸に到る、七千里。

 

<注釈>

(歴=暦=天体の運行をもとに)

特殊漢文文法で算出される積数=七隻

乍南乍東=漢文特殊文法の積数の矛盾する関係にある意味の打消し。

 

始度一海 千餘里 至對海國 其大官日卑狗 副日卑奴母離 所居絶㠀 方可四百餘里 土地山險多深林 道路如禽鹿徑 有千餘戸 無良田食海物自活 乗船南北市糴

 

<誤訳定説>

出典: フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』

始めて一海を渡る。1000余里。対馬国に至る。その大官は卑狗(ひこ)といい、副は卑奴母離(ひなもり)という。絶島で400余里四方。土地は、山が険しく、深い林が多い。道は獣道(けものみち)のようである。1000余戸が有る。良い田畑がなく、海産物で自活。船で南北の市へいく。

<解読>

始度一海 千餘里 至對海國 其大官日卑狗 副日卑奴母離=新に一海を渡ること千餘里、對海國に至る、其、(大官日=春分=3月20日)に出入航。

<注釈>

其大官日卑狗 副日卑奴母離=定説誤訳の官職名称は間違い、年月日の特殊文法。

春分=232年出入航3月20日~出航3月27日と現れましたが、検証のため春分日を数式で計算した場合は出入航日が3月22日(232年春分数値)

 

<解読>

所居絶㠀 方可四百餘里 土地山險多深林 道路如禽鹿徑 有千餘戸=(對海國)は(絶㠀=ぜついき=遠く跳ねれていて限られた領土で國全体周囲はおおよそ四百餘里)160km

土地は山が険しく、多くは深い林で、細い道路には雉(禽)、鹿が行き交い、人家は千餘戸。

無良田食海物自活=良い田(畑)は無く、海産物で自活して食している。

乗船南北市糴=穀物を買い入れ寧波船に乗船する際に、南管、北管で演奏の送迎を受ける。

<注釈>

亦南北市糴=南北=方角はとんでもない誤訳

器楽には南管という弦楽器を主体とした優雅な合奏と北管といわれシャーナイ(スルナイ)や胡弓を主楽器とする豪放な合奏が代表的である

 

 

古事記、国産み原文の読み下し文 現代語訳は誤訳の域を超え卑わいで下品でこれが日本の神話だと自信をもって論じられるのか。

日本の歴史学者、研究者から異説が発表されないことが異常である、そもそも古事記、日本書記に記述されている歴代天皇の年齢を解読できないのだから無理かもしれない。

 

<注釈・解読>

古代史記で漢字圏に於いては表音音読漢字が採用されていて仮借音読漢字で記述されています、訓読は基本的に採用されていません、訓読では特殊漢文史記は解読できません、特に積数においては困難になります。

漢文史記の記述年月日

辛未年(西暦251年子月=11月)

於其嶋天降坐而=(於其嶋=沖 ノ 島)

宗像大社の沖 ノ 島に(西晋司馬昭)に天子(降=公=天子の補佐役の官名)坐而=座るために、天(公)五人(柱=人数)をお迎えする八尋殿(八卦、勅使殿)を建立。

魏の安東将軍になった(司馬昭

見立天之御柱=(御柱=御=5名・7名・8名=人数は不明、柱=高貴な人などを数えることば。)天公をお迎えする(見立=献立=けんりゅう=物事の構成や計画。)

天公を迎える計画に当たり、

見立八尋殿=八卦勅使殿=(八尋殿=はちじんでん)を(建立=けんりゅう)

八尋殿(八卦、太極殿、八角形)=建築寸法=一辺(一尋=1.2m、八尋)9.68m=452㎡=直径23.4m(ほぼ法隆寺西円堂と同等寸法、建坪面積 136.96 坪

一辺 9.68 m 8尋 1.21 m 1 尋

 

於是問其=それは正しいことではなかったのか。

伊邪那美命曰汝身者何成=妹伊邪那美命、曰く、それも汝の天のさだめし者、何事も成し遂げるには、しかたないこと。

伊邪那美命=妹のイザナミに問いかけています、イザナギ命の詔で色々やってきたが、

答曰吾身者成成不成合處一處在=スサノオ=答曰く、生まれてから成長するにつれ、不正を行わないように日々精進してきたつもりだ、人としての正しい道は身近なところに求めてきた。

伊邪那岐命詔=(爾=この、イザナギ天子の詔勅

我身者成成而成餘處一處在=(注、スサノオ曰く、我身者=自分の考えにこだわり、おのれは(成成而=生まれ、成長し、)(成餘處一處在=あます生命をこの地にとどまり費やしてきた。

故以此吾身成餘處刺塞=(故=ことさら=殊更・故)(以此吾身=我が身のことを考える)と(成餘處刺塞=精一杯、處刺=所志=こころざして生命をこの地に費やしてきた。)

刺塞=(四塞=四方をとりまくこと=幽閉。)され(刺塞=刺し傷は塞がらない。)(注=幾ばくも無い命と思われます。)

 

<解読 1>

 

汝身不成合處而=(注1=イザナミ曰く=汝身=じょしん=なんじ自身は、(注2=不成合=不成功=目的を不達成=政権を奪われた、(注3=處而=しょじ=諸事=多くのさまざまな事柄。いろいろな事で) 國はうまくいくだろうか。

 

<解読 2>

 

汝身不成合處而=(注1=イザナミ曰く=汝身=じょしん=なんじ自身は、(注2=不成=浮生=はかない人生、ふしょう。)(注3=合處=こうしょ=苟且=その場かぎりの間に合わせであること、かりそめなこと。)而=じ=しかるに) 國はうまくいくだろうか。

以爲生成國土生奈何=(注1以=い=おもう。おもんみる。考える。)(注2爲=い=物事が成就する。)(注3生成國土=せいせいこくど=生まれ、成長した国土)で(注4生奈何=生=一つの血筋を引いた親・子・孫などのそれぞれの代)

(注5生奈=せいだい=聖代=すぐれた天子の治める世)(注6何=理由・原因について問う。)

 

<要約>

 

イザナミ曰く,おもんみるに物事が成就するため、この國に生まれ成長した国土で血筋を引いた親・子・孫などのそれぞれの代ですぐれた天子の治める世になればと思い戦ってきたことが悪いことなのかと問われれば、負け戦になったが良く戦った。(然善=ぜんせん=善戦=負けたほうの戦いぶりにいう)

伊邪那美命答曰然善=(伊邪那美イザナミ)(命答=名答=すぐれた答え。みごとな答え)曰く大丈夫(然善=ぜんせん=善戦=負けたほうの戦いぶりにいう)

 

<注釈>

 

陳寿の歴史記述書の魏志倭人伝に通説誤訳解読では明らかになっていませんが、西暦239年6月に卑弥呼が亡くなり、狗奴國(イザナギスサノオ連合)に邪馬壹國は自衛のために戦いますが敗れ、西暦240年~251年まで狗奴國に政権を奪われますが、魏国の主流派の応援で壹與が復立時に敗れたスサノオが幽閉されて余命が幾ばくも無い時の史記になります。辛未年(西暦251年子月=11月)

 

伊邪那岐命詔然者吾與汝行廻逢是天之御柱而爲美斗能麻具波比此七字以音

 

<解読 >

 

伊邪那岐命詔=(爾=なんじ。おまえ。あなた。二人称の代名詞)(伊邪那岐命詔=イザナギ天子の詔勅である。

然者吾與汝行廻逢是=(然者=念者=念入りな人達)(吾=われ、自分=イザナギ天子)は(與汝=なんじとくみする、力をあわせて)(行廻=更改=変えて新しくすること。)(廻逢是=改封=諸侯の領地を移しかえることと是=し)

天之御柱而爲=(注1=魏國の天公を御柱=5、7、8名=柱=高貴な人の数)(注2=沖ノ島に建立した八尋殿で迎えるに当たり、(而=じ=なんじ、お前。爲=い=成就すること、(注3=倭國を良くすることである。)

美斗能麻具波比=(注1=而=なんじは、美=だれもその境地に到達していないことを、斗能=とうどう=わずかな働きで、麻具=まぐ=覓ぐ=求め準備することは波比=はび=把鼻=正当な理由である=いわれ

 

<まとめ>

古事記、日本書記の編纂時代、日本国として律令制を成立させ、日本国としての正史を編纂することは国家の威信に関わる一大事業である、律令制の法律も実に綿密に記述しています。

古事記、日本書記も正確に編纂されていると考えますが、大学教授、歴史研究者、漢文学者の解読に問題が有り、おかしな正史になっています。

古事記』、『日本書紀』を国産みの記述も表音音読漢字になります、通説の国々は誤訳で神代~歴代天皇の重要な行事で各天皇に貢献した一族の遺族(正妻、遺児、)里親、養子縁組を記述しています。

天武天皇の時代の記述は扶持(俵・評)を付けて引き取り手を応募しています。天皇初娶鏡王女額田姬王、生十市皇女。(生十市皇女=生=生きている人間=養女=生十市皇女

又夫人藤原大臣女氷上娘、生但馬皇女=(又夫人藤原大臣女氷上娘=扶持(俵・評)で漢文特殊文法により積数が表れます、人物ではありません。)生但馬皇女

次夫人氷上娘弟五百重娘、生新田部皇子。

但馬皇女=(次夫人氷上娘弟五百重娘=扶持(俵・評)で漢文特殊文法で積数が表れます、人物ではありません。)生新田部皇子

00 魏志倭人伝 補足、中国の記述正史は倭國の批判が多いので、古事記、日本書記には引用しない編纂を行う。特にイザナギ、スサノオを強烈に批判している。

古事記、日本書記の編纂時に三国志魏志倭人伝の写本を入手していたと考えられる、日本書記の記述で氣長足尊 神功皇后の章で魏志云として記述。

 

陳寿魏志倭人伝ではイザナギスサノオの人格、人間性を強く批判している、狗奴國のイザナギにたいしては臆病で奴婢を扇動して戦をしかけている。

スサノオと同調して同盟を組み、人格については生まれ変わった方が良いとまで記述しています。

日本書記の記述で氣長足姬尊 神功皇后の章で魏志云として記述は批判されていない3章節。

<注釈>

魏國の時代、安東大将軍、司馬 昭にイザナミスサノオが頼って沖の島で公使を迎える(国産み)、西晋司馬炎、その後東晋時代の司馬一族の時代。

神功皇后(西暦366年~370年)

<原文>

宿禰爲太子答歌之曰

許能彌企塢 伽彌鶏武比等破 曾能菟豆彌 于輸珥多氐々 于多比菟々 伽彌鶏梅伽墓 許能彌企能 阿椰珥 于多娜濃芝作 沙

<通説誤訳>

読下 このみきを かみけむひとは そのつづみ うすにたてて うたひつつ かみけめかも このみきの あやにうただぬし ささ

解釈 此の御酒を 釀みけむ人は 其の鼓 臼に立てて 歌ひつつ 釀みけめかも 此の御酒の あやに 歌樂し 酒

上記の解釈では文脈からしておかしいい、魏志云として記述が突然記述されることが理解できない。

<解釈>

許能彌企塢 伽彌鶏武比等破 曾能菟豆彌 于輸珥多氐々 于多比菟々 伽彌鶏梅伽墓 許能彌企能 阿椰珥 于多娜濃芝作 沙

許能彌企塢=(注1許能=こどう=古道=古代の道義・学問・文化、彌=び=遠い)

伽彌鶏武比等破=(注1伽彌=かみ=加味=あるものに、別の要素を付け加えること)(注2鶏武=けいぶ=軽侮=人を見下してばかにすること)(注3等=とう=たぐい、破=は=やぶる。やぶれる。こわす)

曾能菟豆彌=(注1曾=そう=天子に申し上げること、また、その文書=正史)(注2曾能=そどう=祖道=祖師の示した教え、旅立ち)(注3菟豆=ととう=渡唐=唐土すなわち中国へ渡ること、入唐 (にっとう) =昔、日本から中国を呼んだ名。)(彌=じ=月日を経る=昔)

<要約>

倭國の遠い古代の道義・学問・文化を軽侮のたぐいでこわしている(批判)を付け加えた正史である、祖師の示した教えで旅立ちで渡唐し入手したが、昔の書で月日を経ている。

 

<解釈>

于輸珥多氐々=(注1于=う=ここに、輸=しゅ=輸入=正史)(注2珥多=じた=自他=自分と自分以外の者)(注3氐々=ていてい=亭々=はるかに遠いさま)

于多比菟々=(注1于=う=ここに、多=た=多くを)(注2比=ひ=くみする。えこひいきする。)(注3菟々=とと=とっと=状態や程度を強調する意を表す、まったく、まことに。)

<要約>

ここに、中国から自分と自分以外の者が持ち帰った中国の正史は、はるか昔のもので、えこひいきするものである。

 

<解釈>

伽彌鶏梅伽墓=(注1伽彌=かみ=加味=あるものに、別の要素を付け加えること)(注2鶏梅=けいばい=啓培=知識を得させ,教え導くこと。教養ある人間に育てること)(注3梅伽=ばいか=倍加=増し加わること、また、増し加えること。)(注4墓=ぼ=橅=のっとる。手本にしたがって書く。)

許能彌企能=(注1許能=こどう=古道=古代の道義・学問・文化、彌=び=遠い)(注2企能=きどう=詭道=人を欺くやり方、不正な手段。)

阿椰珥=(注1阿椰=あや=史=あや=正史)(注2椰珥=やじ=野次=他人の出来事を無責任に騒ぎ立てる人や物見高く集まって囃し立てる人を指し示す意味で使われるようになった。)

 

<要約>

正史は本来知識を得させ、その教養が増すことを手本として要素にしたものである、遠い古代の道義・学問・文化を欺く正史にしてはならないが野次の正史である。

 

<注釈>

=漢字の意味=おか、大きい丘。おもねる、こびる、へつらう。よる、よりかかる、もたれる。椰=漢字の意味=やし、ヤシ科の常緑高木の総称。珥=みみだま、耳に飾る玉。さしはさむ。漢字を接続しても意味をなさない。

<解読>

于多娜濃芝作 沙=(注1于=う=ここに、多=た=多くを)(注2多娜=ただ=正史を濃芝=じょうし=上梓=正史をまとめて上梓する)(注3濃芝=じょうし=上巳=陰暦3月初の巳の日,のちに3月3日に行われた)(注4作=さ=書物などを書く。)(注5沙=しゃ=良いものと悪いものを選り分ける。(注6沙=しゃ=写=写す)

<要約>

ここに、多くの正史をまとめて上梓するに当たり、良いものと悪いものを選り分け写す、上巳=陰暦3月初の巳の日,3月3日。

 

<まとめ>

古事記

凡此神倭伊波禮毘古天皇御年、壹佰參拾漆歲。(壹=1=10、佰=2=20、參拾=30、漆=7歲=67歳

日本書記

太歲甲寅。自天祖降跡以逮于今一百七十九萬二千四百七十餘歲。(太歲甲寅=西暦294年)(一=1、百=2、七=7、十=1、九=9、萬=4、二=2、千=3、四=4、百=2、七=7、十=1、餘歲=43(餘=約)

天皇崩于橿原宮、時年一百廿七歲=(漢文特殊文法による積数=67歳

 

古事記、日本書記で解読する際に歴代天皇崩御年齢の誤訳により史実に大きな影響を及ぼし問題を引き起こしています。

初歩の年齢の解読もできない大学教授、歴史研究者の解読に問題があるのです。

 

古事記 序文の一章節について、亦、於姓日下謂玖沙訶、於名帶字謂多羅斯、如此之類、隨本不改

「日下」を(表音=玖沙訶=クサカ、キュウシャカ、「帶」を多羅斯=タラシ)になります,玖沙訶=「日下」=クサカ、解読が誤訳のため無理な表音の通説です、おかしいと思わないことが不思議です。

 

古事記の記述で前文では表音、音読み、訓読み等の記述説明をしています、その文脈を考察すると、姓名の記述について詳細に説明していることを、お粗末な誤訳、こじつけ読みをしていることが滑稽でなりません。

 

<解読>

亦、於姓日下謂玖沙訶(注1 前文と同様に姓名の姓についても、日=じつ=実=自分の生まれた家。生家、また、父母の家の姓をくみ取り、下謂=歌意=記述を声に出し、玖=書き換えを防ぐため。

沙訶=(注2 沙=写=良いものと悪いものを選り分け、訶=表音を手掛かりに語を写し取ること。

於名帶字謂多羅斯=(注1 前文と同様に姓名の名についても、帶字=おびている表音漢字の謂=意をくんで、多羅斯=多く連なる漢字は姓と離す必要である。

如此之類=(似ているもの、同じ性質)の漢字、記述はこれに従う。

隨本不改=(隨本=見聞きした事などを筆にまかせて書いた文章)であり、(不改=附会=関係のない事柄を理屈つけて結びつけることはしていない。)

 

 

 

 

江田船山古墳出土の銀錯銘大刀 

お粗末な解釈銘文の刀を後生大事に棺に入れるだろうか。

意味不明解釈

治天下獲□□□鹵大王世奉事典曹人名无利弖八月中用大鉄釜并四尺廷刀八十練九十振三寸上好刊刀服此刀者長寿子孫洋々得□恩也不失其所統作刀者名伊太和書者張安也

 

<誤訳定説>

天の下治らしめし獲□□□鹵大王の世、典曹に奉事せし人、名は无利弖、八月中、大鉄釜を用い、四尺の廷刀を并わす。

八十たび練り、九十たび振つ。三寸上好の刊刀なり。此の刀を服する者は、長寿にして子孫洋々、□恩を得る也。其の統ぶる所を失わず。刀を作る者、名は伊太和、書するのは張安也。

この銘文には、治天下、八十たび、十握などの強い日本調が混じっている。大王と王恩、四尺と一釜、十握と三寸などの前後を対応照応させて、漢文の本来の手法を巧みに利用している。年号はない。

 

<解読>

治天下獲(□□□=加多支)鹵大王世奉事典曹人名无利弖八月中用大鉄釜并四尺廷刀八十練九十振三寸上好刊刀服此刀者長寿子孫洋々得(□=主)恩也不失其所統作刀者名伊太和書者張安也

 

<注釈>

朝廷の公の詔勅文にしては漢文特殊文法手法が乱れて記述されています。

この銘文の記述は多くの項目が75文字に含まれているので文脈を解読するには、漢字(仮借漢字の熟語)の配列を考慮する必要があります。

典曹=伝奏(てんそう)とは、院政期から幕末にかけて公家政権(朝廷)内に置かれた役職。元来は治天の君上皇)に近侍して奏聞・伝宣を担当したが、後に天皇親政時にも設置されるようになった。

弖は古事記の編纂の同年代に表れます、のま【々】、踊り字、躍り字は日本書記に表れます、又、日本書記で持統天皇までの記述に刀の数量は(大刀一口)、この銘文では九十振←口

(振=音読み=シン、訓読み=振り=フリ)

<解読>

治天下獲(□□□=加多支)鹵大王世奉事典曹人名无利弖=(上好=上皇=朝廷)として、

世奉事=諸国王=大王に代々奉仕すること。

典曹=伝奏(てんそう、役職)の(人名无利弖=ぶりきゅう)が律令の田令で諸国大王に伝える。

諸国大王が統治する国府の田地の(五十里=15万坪=通常の18ホールのゴルフ場の半分)を公分田とする。

八月中用大=(八月、中用=中庸=『中庸』は、もともと『礼記』中の一篇、すなわち礼記中庸篇として伝えられてきたものである。)送る、(大=他人を敬い上にそえることば)

鉄釜并四尺廷刀八十練九十振三寸=(鉄釜=テツフ=鉄斧=鉄製の斧頭(ふとう)、并四尺廷刀=七尺薙刀(テイトウ)、八十練=九(練=連=100)=九百張、(練=連=100)九十振=千(振=口=刀の数量)

三寸=3寸くらいのもの、また、短いもの、薄いものなどのたとえ。

鉄斧九百張、七尺薙刀九百張、短刀千振(口)を献上すること。

 

上好刊刀服此刀者長寿子孫洋々得(□=主)恩也不失其所統作刀者名伊太和書者張安也

 

<注釈>

典曹=伝奏(てんそう)とは、院政期から幕末にかけて公家政権(朝廷)内に置かれた役職。元来は治天の君上皇)に近侍して奏聞・伝宣を担当したが、後に天皇親政時にも設置されるようになった。

伝宣=勅旨を伝達すること。

<解読>

上好刊刀服此刀者=勅使、上皇元正天皇)は、(好刊=こうかん=浩瀚=書物の多くあるさま、浩瀚な蔵書)を刀師者の(服此=副史=そえ役、控)と考えている。

長寿子孫洋々得(□=主)恩也不失=(長寿=物事が長く持続している様子のことをいう。)(子孫洋々=のちの世代の人々、子、孫が盛んであることを願う。

々得=ようとく(注=刀師は、陽徳=人に知られるようにあらわに行う徳行と考え、主恩=主人や主君=(聖武天皇=首=おびと)から受けた恩をいくつしむこと、(不失=不悉=思うことを十分に言いつくさないこと。手紙の末尾に書き添える語)

 

 

<銘文解読と江田船山古墳の年代の相違>

私見考察、江田船山古墳はこの地の豪族の歴代王としての陵墓ではないかと考察される、最後に合祀された王の時代が聖武天皇と同時代と考えられる。

銘文漢字の(弖、振、洋々)の時代説明がつかない。

 

<解読>

其所統作刀者名=(其所=刀師=とうし=鍛刀地=鍛刀される場所・地域を鍛刀地(たんとうち)という。)で(統作=等差=ある一定の基準による等級の違い。)(統作=一つにまとまめ作ること。

伊太和書者張安也=(伊太=偉大=偉大な業績)を(和書=日本語で書いた書物、国書。)として(書者=書き取ること。)

張安也=(張=ものを書き記すために複数の紙をとじて作ったもの。)(安=文書の下書き。草案。「案を提出する。)也=なり

 

<解読まとめ>

勅旨、上皇は刀の蔵書を刀師者の控えと考えている、又、長寿子孫洋々と陽徳と捉え、天皇に主恩をいつくしみ、(不悉)

刀師者に機銃等級の機銃を定め、偉大な業績を国書にするための草案をとじて提出すること。

 

 

獲加多支鹵大王=ワカタケル大王、雄略天皇、大学教授や歴史研究者のお粗末な解釈を正す。Ⅰ

大学教授や歴史研究者は解読できないと、官職名、個人名として位置づけて、深層の意味をくみとらないヒドイ定説。

漢文解読で解読できない漢字を自己都合で飛ばしてしまう学会の手法は目を覆うものがある。

<誤訳定説>

(表)辛亥の年七月中、記す[2]。ヲワケの臣。上祖、名はオホヒコ。其の児、(名は)タカリのスクネ。其の児、名はテヨカリワケ。其の児、名はタカヒシ(タカハシ)ワケ。其の児、名はタサキワケ。其の児、名はハテヒ。

(裏)其の児、名はカサヒヨ[3](カサハラ[4])。其の児、名はヲワケの臣。世々、杖刀人[5]の首と為り、奉事し来り今に至る。ワカタケル(「ワ、ワク、カク」+「カタ」+「ケ、キ、シ」+「ル、ロ」)の大王の寺[6]、

シキの宮に在る時、吾[7]、天下を左治し、此の百練の利刀を作らしめ、吾が奉事の根原を記す也。

 

<解読のための注釈>

亥年七月中記乎獲居=(辛亥年=西暦711年)七月中気=穂含み月の根拠

【弖=て‐に‐を‐は×弖×爾×乎波/天×爾▽遠波】漢文を訓読するとき、補読しなければならない、助詞・助動詞・活用語尾・接辞などの古称。てには。

奈良時代の時代にもよりますが、基本的には漢文は表音読で漢文の訓読では解読できません。

本居宣長の解釈以来、「弖爾乎波」の誤(うそ)訳が現在まで連々(連=100、連=100=紙の100枚単位=いやみで記述)と大学教授、研究者が同見解を示しています。

弖は古事記の編纂の同年代に表れます、のま【々】、踊り字、躍り字は日本書記に表れます、このことにより、(辛亥年は471年が定説であるが一部に531年説もある。あり得ません。)

 

慶雲4年(707年)に文武天皇崩御し、元明天皇として即位、和銅3年(西暦710年)、大宝律令を諸国に頒布したことを諸国に厳守させる詔勅文。

 

「辛亥年七月中記乎獲居臣上祖名意富比垝其児多加利足尼其児名弖已加利獲居其児名多加披次獲居其児名多沙鬼獲居其児名半弖比」

 

亥年七月中記乎獲居=(辛亥年=西暦711年)七月中気=穂含み月、七夜月(ななよづきの別名もある)、(記乎=きこ=旗鼓=軍隊、軍事。)

(獲居=覚挙=かくきょ=律令制で、官人が公務上の過失を自ら申し出ること。発覚以前であれば、原則として免責された。)

臣上祖名意富比垝其児=臣、民がこの(刀=剣)を上祖=献上することを功績、名誉とすうために、意富比垝=意富比姫大社に刀に(其児=記事=事実を書くこと、また、その文章。)差し出すこと。

多加利足尼其児名弖已=意富比姫大社が都から認められ、下吏、(尼=国分尼寺)も(児名=特に証明などをしなくても、明らかであること。)で蔭位を賜った。

<解読>

亥年七月中記乎獲居=(辛亥年=西暦711年)七月中気=穂含み月、諸国の軍、臣は覚挙し、祖、意富比姫大社に上訴して、事実を記述することを皆に認め、多くを改革しなければならない。

(国守=下総國)、国分寺国分尼寺を(足=建立することは(児名=自明=特に証明などをしなくても、明らかであること。)である。

加利獲居其児名多加披次獲居其児名多沙鬼獲居其児名半弖比=(加利獲居其児名=注、多くの田んぼ面積=利=里を過失で所有していたが、覚挙により免責することは明白である。)

多加披次獲居其児名=(多加披=多くの加披=仏・菩薩・神が慈悲の力を加えて衆生を助け、願いをかなえること。加護。被護。加持。)(次=国分寺ぼ僧、除く)(獲居其児名=覚挙は明白である。

多沙鬼獲居其児名半弖比=(沙鬼=さき=左揆=左大臣唐名律令制で、太政官の長官。太政大臣の次位、右大臣の上位にあって、政務を統轄した。左府。左丞相 (さしょうじょうの命により、(獲居=覚挙した者は半弖比=班給は前例どおりである。

<注釈>

蔭位=《父祖のお蔭 (かげ) で賜る位の意》律令制で、親王以下五位以上の者の子と、三位以上の者の孫とが、21歳になると自動的に従五位下から従八位下の位階を授けられること。また、その位階。いんい。

貞観5年(863)

下総国意富比神」が正五位下を授けられる(『日本三代実録』)

班給=班年 (班給の年) 口分田(くぶんでん)とは - コトバンク 参照

親王以下奴婢 (ぬひ) にいたるまで (僧侶を除く) 一定面積の田を分ち与え,終身用益権を認めた。