魏志倭人伝 卑弥呼 古事記 日本書記 万葉集 甲骨文字 以音 五経基軸文法による解読

漢文史記は五経文法が採用されています、この五経文法は殷時代の甲骨文字(漢字変換)でも採用されており、古代中国は唐時代の末期で消滅、日本では奈良時代(西暦720年)頃で消滅して現在に至っています、この漢文史記を一字一句解読したブログになります。

古事記、国産み原文の読み下し文 現代語訳は誤訳の域を超え卑わいで下品でこれが日本の神話だと自信をもって論じられるのか。

日本の歴史学者、研究者から異説が発表されないことが異常である、そもそも古事記、日本書記に記述されている歴代天皇の年齢を解読できないのだから無理かもしれない。

 

<注釈・解読>

古代史記で漢字圏に於いては表音音読漢字が採用されていて仮借音読漢字で記述されています、訓読は基本的に採用されていません、訓読では特殊漢文史記は解読できません、特に積数においては困難になります。

漢文史記の記述年月日

辛未年(西暦251年子月=11月)

於其嶋天降坐而=(於其嶋=沖 ノ 島)

宗像大社の沖 ノ 島に(西晋司馬昭)に天子(降=公=天子の補佐役の官名)坐而=座るために、天(公)五人(柱=人数)をお迎えする八尋殿(八卦、勅使殿)を建立。

魏の安東将軍になった(司馬昭

見立天之御柱=(御柱=御=5名・7名・8名=人数は不明、柱=高貴な人などを数えることば。)天公をお迎えする(見立=献立=けんりゅう=物事の構成や計画。)

天公を迎える計画に当たり、

見立八尋殿=八卦勅使殿=(八尋殿=はちじんでん)を(建立=けんりゅう)

八尋殿(八卦、太極殿、八角形)=建築寸法=一辺(一尋=1.2m、八尋)9.68m=452㎡=直径23.4m(ほぼ法隆寺西円堂と同等寸法、建坪面積 136.96 坪

一辺 9.68 m 8尋 1.21 m 1 尋

 

於是問其=それは正しいことではなかったのか。

伊邪那美命曰汝身者何成=妹伊邪那美命、曰く、それも汝の天のさだめし者、何事も成し遂げるには、しかたないこと。

伊邪那美命=妹のイザナミに問いかけています、イザナギ命の詔で色々やってきたが、

答曰吾身者成成不成合處一處在=スサノオ=答曰く、生まれてから成長するにつれ、不正を行わないように日々精進してきたつもりだ、人としての正しい道は身近なところに求めてきた。

伊邪那岐命詔=(爾=この、イザナギ天子の詔勅

我身者成成而成餘處一處在=(注、スサノオ曰く、我身者=自分の考えにこだわり、おのれは(成成而=生まれ、成長し、)(成餘處一處在=あます生命をこの地にとどまり費やしてきた。

故以此吾身成餘處刺塞=(故=ことさら=殊更・故)(以此吾身=我が身のことを考える)と(成餘處刺塞=精一杯、處刺=所志=こころざして生命をこの地に費やしてきた。)

刺塞=(四塞=四方をとりまくこと=幽閉。)され(刺塞=刺し傷は塞がらない。)(注=幾ばくも無い命と思われます。)

 

<解読 1>

 

汝身不成合處而=(注1=イザナミ曰く=汝身=じょしん=なんじ自身は、(注2=不成合=不成功=目的を不達成=政権を奪われた、(注3=處而=しょじ=諸事=多くのさまざまな事柄。いろいろな事で) 國はうまくいくだろうか。

 

<解読 2>

 

汝身不成合處而=(注1=イザナミ曰く=汝身=じょしん=なんじ自身は、(注2=不成=浮生=はかない人生、ふしょう。)(注3=合處=こうしょ=苟且=その場かぎりの間に合わせであること、かりそめなこと。)而=じ=しかるに) 國はうまくいくだろうか。

以爲生成國土生奈何=(注1以=い=おもう。おもんみる。考える。)(注2爲=い=物事が成就する。)(注3生成國土=せいせいこくど=生まれ、成長した国土)で(注4生奈何=生=一つの血筋を引いた親・子・孫などのそれぞれの代)

(注5生奈=せいだい=聖代=すぐれた天子の治める世)(注6何=理由・原因について問う。)

 

<要約>

 

イザナミ曰く,おもんみるに物事が成就するため、この國に生まれ成長した国土で血筋を引いた親・子・孫などのそれぞれの代ですぐれた天子の治める世になればと思い戦ってきたことが悪いことなのかと問われれば、負け戦になったが良く戦った。(然善=ぜんせん=善戦=負けたほうの戦いぶりにいう)

伊邪那美命答曰然善=(伊邪那美イザナミ)(命答=名答=すぐれた答え。みごとな答え)曰く大丈夫(然善=ぜんせん=善戦=負けたほうの戦いぶりにいう)

 

<注釈>

 

陳寿の歴史記述書の魏志倭人伝に通説誤訳解読では明らかになっていませんが、西暦239年6月に卑弥呼が亡くなり、狗奴國(イザナギスサノオ連合)に邪馬壹國は自衛のために戦いますが敗れ、西暦240年~251年まで狗奴國に政権を奪われますが、魏国の主流派の応援で壹與が復立時に敗れたスサノオが幽閉されて余命が幾ばくも無い時の史記になります。辛未年(西暦251年子月=11月)

 

伊邪那岐命詔然者吾與汝行廻逢是天之御柱而爲美斗能麻具波比此七字以音

 

<解読 >

 

伊邪那岐命詔=(爾=なんじ。おまえ。あなた。二人称の代名詞)(伊邪那岐命詔=イザナギ天子の詔勅である。

然者吾與汝行廻逢是=(然者=念者=念入りな人達)(吾=われ、自分=イザナギ天子)は(與汝=なんじとくみする、力をあわせて)(行廻=更改=変えて新しくすること。)(廻逢是=改封=諸侯の領地を移しかえることと是=し)

天之御柱而爲=(注1=魏國の天公を御柱=5、7、8名=柱=高貴な人の数)(注2=沖ノ島に建立した八尋殿で迎えるに当たり、(而=じ=なんじ、お前。爲=い=成就すること、(注3=倭國を良くすることである。)

美斗能麻具波比=(注1=而=なんじは、美=だれもその境地に到達していないことを、斗能=とうどう=わずかな働きで、麻具=まぐ=覓ぐ=求め準備することは波比=はび=把鼻=正当な理由である=いわれ

 

<まとめ>

古事記、日本書記の編纂時代、日本国として律令制を成立させ、日本国としての正史を編纂することは国家の威信に関わる一大事業である、律令制の法律も実に綿密に記述しています。

古事記、日本書記も正確に編纂されていると考えますが、大学教授、歴史研究者、漢文学者の解読に問題が有り、おかしな正史になっています。

古事記』、『日本書紀』を国産みの記述も表音音読漢字になります、通説の国々は誤訳で神代~歴代天皇の重要な行事で各天皇に貢献した一族の遺族(正妻、遺児、)里親、養子縁組を記述しています。

天武天皇の時代の記述は扶持(俵・評)を付けて引き取り手を応募しています。天皇初娶鏡王女額田姬王、生十市皇女。(生十市皇女=生=生きている人間=養女=生十市皇女

又夫人藤原大臣女氷上娘、生但馬皇女=(又夫人藤原大臣女氷上娘=扶持(俵・評)で漢文特殊文法により積数が表れます、人物ではありません。)生但馬皇女

次夫人氷上娘弟五百重娘、生新田部皇子。

但馬皇女=(次夫人氷上娘弟五百重娘=扶持(俵・評)で漢文特殊文法で積数が表れます、人物ではありません。)生新田部皇子