魏志倭人伝 卑弥呼 古事記 日本書記 万葉集 甲骨文字 以音 五経基軸文法による解読

漢文史記は五経文法が採用されています、この五経文法は殷時代の甲骨文字(漢字変換)でも採用されており、古代中国は唐時代の末期で消滅、日本では奈良時代(西暦720年)頃で消滅して現在に至っています、この漢文史記を一字一句解読したブログになります。

邪馬台国は幾内、奈良だと論じる学者、研究者、叉、四国と言い張る研究者はこの羅列した国々はどこにあるのか?

<注釈>

西晋が古代からの習わしで、前朝廷の魏國の記述を正史として陳寿が記述したものである。

浅知恵学者、研究者、小説家も含めたんなる紀行文的に捉えでたらめ論法をとなえている方がおかしい。

ここまでの記述が魏志倭人伝の前編部分と陳寿は捉えています。

魏國が属國に対して厳密に倭国の財政に関わる露田を調査した結果報告書になります、西晋の敵対國に解読できないように五経文法を駆使しています。

※ 読者の方はご自分の銀行口座のパスワードを気軽に開示しますか。

 

邪馬壹(臺)國の国税調査報告書

 

自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳

自女王國以北其戸數道里可得略載其餘旁國遠絶不可得詳=邪馬壹国(卑弥呼女王國以北)自らの帳簿に偽りは無く、得ている戸数、田んぼの面積に於いても同じである。

其、(この)國は広く遠くは途切れているので詳しくは不明。

次有斯馬國 次有巳百支國 次有伊邪國 次有都支國 次有彌奴國 次有好古都國 次有不呼國 次有姐奴國 次有對蘇國 次有蘇奴國 次有呼邑國 次有華奴蘇奴國 次有鬼國 次有為吾國 次有鬼奴國 次有邪馬國 次有躬臣國 次有巴利國 次有支惟國 次有烏奴國 次有奴國  

<注釈>

百里=二十一國、文字数=107文字、大きい積数なので国々と文字数が多い。PC言語と同様にお考えください。五経文法

此女王境界所盡=此=し=この女王國の境界(注 1すべて出しきる。=所在は終わる。)(注 2 所盡=おおよその数量をあらわす、すべて出しきる=書き記す。)(注 3 所盡(仮借)=書人) 

露田(田んぼ)の面積=七百里 検分実測報告面積でこれに収穫量を考慮して税を徴収できます。

<注釈>

邪馬壹国の属國(韓國・百済新羅

遠絶=邪馬壹国の領土(北は現在のソウル、百済新羅対馬海峡を隔て現=九州)

この一章節は魏国の検使による国税調査報告書になります。

羅列された多くの國名は漢文特殊文法による積数表示の漢文で國名を仮借しています。

邪馬壹国の属國としての立ち位置は厳しいものを感じられます。

 

<邪馬壹(臺)國 前編 総論>

魏志倭人伝を記述した陳寿は冥界で嘆き悲しんでいると確信できます、倭国(現在の日本)で大罪的な誤訳が通説で論争されています。

広い世の中で魏志倭人伝の解読研究されている方で公開デイベートされる大学教授、研究者はおられませんか?

Googleで検索すると、邪馬台国、約600万件・魏志倭人伝、100万件がヒットします、何かしらの解釈に関係していると思われます。

魏志倭人伝邪馬台国の誤解釈は間違った古代日本歴史論を植え付けて、まるで天動説のようである。

 

<邪馬壹(臺)國 後編 概略>

イザナギスサノオを痛烈に批判して節がかなり記述されています、これでは古事記、日本書記の編纂時に記述できません。

古事記、日本書記、万葉集も大罪的な誤訳が通説なので仕方ありません。

先日もYouTube雄略天皇詩の講演会動画がありました、雄略天皇の時代に訓読みが無いのに訓読みを入れて解説、正解ならまだしも誤訳です。

 

邪馬壹(臺)國の生活の様子、狗奴國との戦の準備、戦闘衣の刺繡模様、男子の戦闘衣、婦人の戦闘衣、奴婢の戦闘衣。

邪馬壹(臺)國は負け戦になりと論じています。

 

種禾稻紵麻 蠶桑 緝績出細紵縑緜 其地無牛馬虎豹羊鵲 兵用矛盾木弓 木弓短下長上 竹箭或鐵鏃或骨鏃 所有無與儋耳朱崖同

 

儋耳郡(たんじ-ぐん)⇒せんじぐん⇒陳寿はせんじと表音を支持しています、五経文法の積算に反映できません。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8F%A0%E5%B4%96%E9%83%A1

儋=表音読み=たん・せん・だん

儋耳郡(せんじ-ぐん)

<その後の解読で詳細解読は示しますが、簡易要約>

節文要約=麻より強靭繊維の紵=からむし繊維を麻とキルティングにした貫頭衣で矢に当たった場合の鎧で防矢衣で牛・馬・虎・豹・羊・鵲の刺繡がしてある戦闘衣を身に着けて防衛訓練をしている光景に、あまりにもあでやかなので記述しています。

※ スカジャンよりあでやかと思われます。龍の五爪は天子の象徴ですし、三爪にすれば、自ら属國と認めたことになります。

甚平 男性和服 絡繰魂 信長の虎 刺繍

https://www.sousakuzakka-koto.com/item/kuzb2019tora/

その光景が邪馬壹(臺)國(儋耳郡)VS狗奴國(朱崖⇒表音仮名・借字=珠厓郡、しゅがい-ぐん)と同じ反乱を起こし、滅亡したとの例えです。

珠崖郡(海南島

前漢南越国を滅ぼした翌年の紀元前110年(元封元年)、海南島に珠厓郡と儋耳郡が置かれた。郡が置かれてから紀元前86年(始元元年)までの間に、6回の反乱が起こった。紀元前82年(始元5年)、儋耳郡を併合した。紀元前59年(神爵3年)、珠厓3県が反乱を起こした。紀元前53年(甘露元年)、9県が反乱を起こした。紀元前48年(初元元年)、また珠厓郡が反乱を起こした。紀元前46年(初元3年)、賈捐之の提議を受けて、珠厓郡は廃止され、その地は放棄された。

 

邪馬壹(臺)國、卑弥呼から魏國に献上する品物、魏國が属國に対して強要する領地、露田、献上品の数量等

卑弥呼崩御、葬儀儀礼に参列した魏國の使者の不潔(シラミ)の様子

(事鬼道能惑衆)=鬼道を働く(能)=スサノオが民衆を扇動することで亂が収まらない。卑弥呼が鬼道(呪術)を使うと馬鹿な解釈が通説、あほらしい。

イザナギスサノオ連合が邪馬壹(臺)國に戦勝して政権が移行してからの様子。

卑弥呼の陵墓の規模、詳細寸法。

復立、壹與=通説の十三歳は浅知恵な誤訳。⇒この節文は十三國の王が同意した。

 

ちなみに!

卑弥呼卑弥呼遺諡(おくりな)=大照

五経解読で表れます。

 

<同様の表音仮名(借字)の五経文法の積数で構成された節文が古事記、日本書記に神代記~歴代天皇天武天皇記・下)まで存在します。>

※ でたらめ解読により神話になってしまった。

 

※ キーワード⇒生御子・生□□□□と記述されているのは生きている前皇后・妃・高子・皇女・婦人・夫人の前に(生)が記述されています。

これは政権を受け継ぎ何等か功労功績で戸主(夫)が亡くなり(戦争)天皇に近い血筋の濃い血族を払い下げ、養子・養女に送り出す場(宴)の記述です。

※ 生まれたと解釈しているのはでたらめ。

※ 事例⇒天武天皇記⇒生高市高子(注釈、要約⇒次納胸形君德善女尼子娘、生高市皇子命。)は通説=納胸形君德善女尼子娘は母はでたらめです。

※ 次納胸形君德善女尼子娘=養子に出すときの出自で同じ母から双子で生まれ、長兄で命名天武天皇。 

※ 事例⇒天武天皇記⇒額田王天武天皇との間に子供がないので(いとま)を言い渡されて養女の十市皇女と養母・養女の引き取り。再婚先⇒内大臣藤原⇒藤原朝臣大嶋

※ 額田王の影の権勢は温存されていました。

 

魏志倭人伝から古事記、日本書記へ移行する神武天皇及び、歴代天皇との整合性記述の検証

【制詔 親魏倭王卑弥呼】を賜る以前は邪馬壹國

<注釈>

それ以後、卑弥呼、仮政権=イザナギ、壹與、イザナギ~鸕鶿草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)~神武天皇古事記、日本書記へ記述されるが、原文は正史なので正しいいが、読下しは大罪誤訳である。

邪馬臺國=やまたいこく=臺(台)=朝廷。役所。の意味が含まれる。(注 属國ではあるが一つの國として認められた。

 

※ 日本書記にはなぜ記述が無い。氣長足尊 神功皇后の時代に魏志倭人伝を入手したが、猛烈に批判されているので編纂時に抹消。

 

※ 天武天皇の時代、唐に占領され、中国(唐)に古事記、日本書記の写本が取られる恐れがあるで、表音仮名(借字)を巧みに使い記述したのではないかと思われる。

※ 年代の相違、神武天皇欠史八代、江戸時代、明治以後、馬鹿学者が単に解読できず、歴代天皇の齢を積算して紀元前660年にしただけである。

※ 解読ヒント=(自天祖降跡以逮于今一百七十九萬二千四百七十餘。)自天祖降跡以逮于今(一百(二)七十(一)九萬(四)二千(三)四百(二)七十(一)餘。=四十三(餘=あまり)歳⇒加算

※ 歴代天皇、皇族で若くして崩御されて方の年齢は(尊)(命)を最後に諡号として付け加算、一定数のかさ上げをしています。

 

 

邪馬壹國、卑弥呼→邪馬臺國、卑弥呼→(西暦240年、仮政権=朝廷、狗奴國(伊邪那岐イザナギ)→(復立、邪馬臺國、壹與)→(政権樹立=朝廷、狗奴國(伊邪那岐イザナギ、)

祖父=火折彦火火出見尊、父=彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊、子=彦火火出見神武天皇

五経解読>

彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊=(注 諱=いみな。解読=崩御=丙申の年=西暦276年→中国、晋、武帝司馬炎(在位期間 266年2月4日 - 290年5月16日)、朝貢、時期は不明、玉刻を賜る。

 

梁書/卷54 参照>

復立卑彌呼宗女臺與爲王。其後復立男王,並受中國爵命。晉安帝時,有倭王贊。贊死,立弟彌;彌死,立子濟;濟死,立子興;興死,立弟武。(神武天皇

西暦294年、日本書記=神日本磐余天皇 神武天皇、太甲寅。自天祖降跡以逮于今一百七十九萬二千四百七十餘。四十三歳。

日本書記の神武天皇記の年代記述の最終章節→七十有六年春三月甲午朔甲辰、天皇崩于橿原宮、時年一百廿七

七十有六年春三月甲午朔甲辰=(西暦240年、仮政権=朝廷、狗奴國(伊邪那岐イザナギ)から換算して79年(約80年)、崩御=71歳

辛酉年春正月庚辰朔、天皇卽帝位於橿原宮、=(西暦301年)この年を元年として、日本足國押人天皇 孝安天皇記(通算年数=百二年春正月戊戌朔丙午、天皇崩。)まで記述。

 

※ ただし、歴代天皇の順番が入れ替わります、孝安天皇記の次代の足仲天皇 仲哀天皇(換算年数が元年春正月庚寅朔庚子、太子卽天皇位に変更)

<考察>

日本書記=氣長足尊 神功皇后記で魏志倭人伝の記述があります、通算年が仲哀天皇からの年代で計算されています、これは陳寿魏志倭人伝の写本を入手したのでは?。

古代中国の属國は自ら元号を独自につけることは許されませんが西暦240年に魏國に逆らい、仮政権=朝廷、狗奴國(伊邪那岐イザナギ)を樹立してその元号資料が神獣鏡の解読で考察。

<神獣鏡>

赤烏元年五月廿五日丙午造作明竟百錬清銅 服者君候宣子孫寿万年 

 

新唐書/卷220

倭,日本

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E5%A4%B7%E4%BC%9D

初代天皇  鸕鶿草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)

其王姓阿每氏,自言初主號天御中主,至瀲,凡三十二世,皆以「尊」爲號,居築紫城。瀲子神武立,更以「天皇」爲號,徙治大和州。

次曰綏靖,次安寧,次懿德,次孝昭,次天安,次孝靈,次孝元,次開化,次崇神,次垂仁,次景行,次成務,次仲哀。仲哀死,

以開化曾孫女神功爲王。次應神,次仁德,次履中,次反正,次允恭,次安康,次雄略,次清寧,次顯宗,次仁賢,次武烈,次繼體,次安閒,次宣化,次欽明。

欽明之十一年,→(552年=欽明天皇13年)に百済から仏像と経文が伝来する)→(551年(欽明天皇12年)→(550年=欽明天皇11年)

直梁承聖元年。→(西暦552年)

 

※ 2年のずれが生じる

 

次海達。次用明,亦曰目多利思比孤,直隋開皇末,始與中國通。次崇峻。崇峻死,欽明之孫女雄古立。次舒明,次皇極。

其俗椎髻,無冠帶,跣以行,幅巾蔽後,貴者冒錦;婦人衣純色裙,長腰襦,結髮於後。至煬帝,賜其民錦線冠,飾以金玉,文布爲衣,左右佩銀蘤長八寸,以多少明貴賤。

 

(西暦631年)

太宗貞觀五年,遣使者入朝。帝矜其遠,詔有司毋拘貢。遣新州刺史高仁表往諭,與王爭禮不平,不肯宣天子命而還。久之,更附新羅使者上書。

(西暦650年)

永徽初,其王孝德即位,改元曰白雉,獻虎魄大如斗,碼硇若五升器。時新羅爲高麗、百濟所暴,高宗賜璽書,令出兵援新羅。未幾孝德死,其子天豐財立。死,子天智立。

(西暦651年)

明年,使者與蝦蛦人偕朝。蝦蛦亦居海島中,其使者須長四尺許,珥箭於首,令人戴瓠立數十步,射無不中。天智死,子天武立。死,子總持立。

西暦651年~西暦670年)の唐の正史に記述有り。

※ 直梁承聖元年。→(西暦552年)

※ 2年のずれが生じる

※ 永徽初,(西暦651年)、明、(西暦652年)=マイナス(額田王、歌=(西暦674年)、天武天皇崩御(西暦686年=朱鳥元年) 

※ 欽明之十一年,→(552年=欽明天皇13年)に百済から仏像と経文が伝来する)→(551年(欽明天皇12年)→(550年=欽明天皇11年) 

粟田真人朝臣

※ 生年は不明。出家して道観と名乗る。白雉4年(653年)の遣唐使船に留学僧として随行し、唐で学問を修める。帰国後、還俗して朝廷に仕え、天武天皇10年(681年)小錦下(後の従五位下に相当)となる。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B2%9F%E7%94%B0%E7%9C%9F%E4%BA%BA

天智死,

※ 考察 23年間の差異が生じる。

子天武立。死,

※ 考察 23年間の差異が生じる。

※ 天武天皇15年7月20日ユリウス暦686年8月14日)に朱鳥と定められ、32年ぶりに再開された。しかし同年9月9日(ユリウス暦10月1日)に天武天皇崩御すると、以降、701年の大宝までは、元号が定められることはなかった。

 

万葉集に編集されている額田王史記天武天皇が存命されていることを検証。

甲 戊 西暦674 年

八隅知之 和期大王之 恐也 御陵奉仕流 山科乃 鏡山尓 夜者毛 夜之盡 晝者母 日之盡 哭耳呼 泣乍在而哉 百磯城乃 大宮人者 去別南

※ 粟田真人朝臣が唐より持ち帰った漏刻を天智天皇の漏刻と同様な仕様で設計建築、詳細寸法図の記述の史記額田王

※ 時の告げ方の詳細等も記述した歴史的資料である。

 

日本書記、高天原廣野天皇 持統天皇

朱鳥元年九月戊戌朔丙午、天渟中原瀛眞人天皇崩、皇后臨朝稱制。

十一月甲戌朔庚辰、賞賜送使金高訓等、各有差。甲申、奉勅始行元嘉曆與儀鳳曆。

儀鳳曆=通説 ?=西暦676年 - 西暦679年

 

新唐書/卷220

子總持立

持統天皇(じとうてんのう)

(西暦670年)

咸亨元年,遣使賀平高麗。後稍習夏音,惡倭名,更號日本。使者自言,國近日所出,以爲名。或云日本乃小國,爲倭所并,故冒其號。使者不以情,故疑焉。又妄誇其國都方數千里,南、西盡海,東、北限大山,其外即毛人云。

(西暦701年)

長安元年,其王文武立,改元曰太寶,遣朝臣真人粟田貢方物。朝臣真人者,猶唐尚書也。冠進德冠,頂有華蘤四披,紫袍帛帶。真人好學,能屬文,進止有容。武后宴之麟德殿,授司膳卿,還之。文武死,子阿用立。死,子聖武立,改元曰白龜。

(西暦713年)

開元初,粟田復朝,請從諸儒受經。詔四門助教趙玄默即鴻臚寺爲師,獻大幅布爲贄,悉賞物貿書以歸。其副朝臣仲滿慕華不肯去,易姓名曰朝衡,曆左補闕,儀王友,多所該識,久乃還。聖武死,女孝明立,改元天平勝寶。天寶十二載,朝衡復入朝。

上元 (唐粛宗) : 唐代、粛宗の治世に使用された元号(760年 - 761年)

上元中,擢左散騎常侍、安南都護。新羅梗海道,更繇明、越州朝貢。孝明死,大炊立。死,以聖武女高野爲王。死,白壁立。

(西暦780年)

建中元年,使者真人興能獻方物。真人,蓋因官而氏者也。興能善書,其紙似繭而澤,人莫識

貞元 (唐)(785年 - 805年)

貞元末,其王曰桓武,遣使者朝。其學子橘免勢、浮屠空海願留肄業,曆二十餘年。使者高階真人來請免勢等俱還,詔可。次諾樂立,次嵯峨,次浮和,次仁明。

(西暦839年)

仁明直開成四年,復入貢。次文德,次清和,次陽成。次光孝,直光元年。

(西暦640年)

貞觀十四年,其王遣子可也余莫貂皮更三譯來朝。授騎都尉,遣之。

龍朔初,有儋羅者,其王儒李都羅遣使入朝,國居新羅武州南島上,俗樸陋,衣大豕皮,夏居革屋,冬窟室。地生五穀,耕不知用牛,以鐵齒杷土。初附百濟。麟德中,酋長來朝,從帝至太山。後附新羅

(西暦723年)

開元十一年,又有達末婁、達妒二部首領朝貢。達末婁自言北扶餘之裔,高麗滅其國,遺人度那河,因居之,或曰他漏河,東北流入黑水。達姤,室韋種也,在那河陰,凍末河之東,西接黃頭室韋,東北距達末婁云。

 

<解読>

(西暦670年)

咸亨元年,遣使賀平高麗。後稍習夏音,惡倭名,更號日本。使者自言,國近日所出,以爲名。或云日本乃小國,爲倭所并,故冒其號。使者不以情,故疑焉。又妄誇其國都方數千里,南、西盡海,東、北限大山,其外即毛人云。

 

咸亨元年,遣使賀平高麗。後稍習夏音,惡倭名,更號日本。使者自言,國近日所出,以爲名。

<解読>

倭國

咸亨元年,(西暦670年),

遣使賀平高麗=賀=が=よろこぶ。祝う。平(表音仮名)=へい=並。高麗=こうれい。

後稍習夏,更號日本=後稍(表音仮名)=そうしゅう=早秋=秋の初め。ようやく。次第に。だんだんと。少しずつ。初秋。習夏(表音仮名)=しゅうか=終(夏=たより。おとずれ。知らせ。)

音惡倭名=音=いん=中国から伝来した漢字の発音。また、その読み方。惡倭名=あくわめい。

更號日本。使者自言,國近日所出,以爲名。=更=こう=あらためる。かえる。とりかえる。新しいものにする。號=こ=名づける。称する。

 

日本=にちほん

使者自言=ししゃじごん。

國近日所出=國=こく=(倭國)。近=きん=ちかい。時間的・距離的にちかい。日=じつ=ひ。太陽。太陽の光。ひる。ひるま。太陽のでている間。所=しょ=ところ。場所。所在。出=すい=あらわれる。うまれる。うみだす。

以爲名=以=い=もちいる。使う。使用する。爲=い=おさめる。まとめる。統治する。名=めい=なのる。なづける。例:命名(めいめい)

 

咸亨元年,遣使賀平高麗。後稍習夏音,惡倭名,更號日本。使者自言,國近日所出,以爲名。

<要約 1 >

咸亨元年遣使賀平高麗(表音仮名)=かんこう=咸亨元年,(西暦670年)。倭國遣使並びに高麗遣使が喜びを祝いに朝貢

後の早秋の終夏の訪れの時期、音悪(いんあく)なので倭銘を新たに名づけました、日本と使者は自ら唱えた。

日本國は太陽の日が近く出るところで、これをもって、治める名にいたします。

 

或云日本乃小國,爲倭所并,故冒其號。使者不以情,故疑焉。

<解読>

或云日本乃小國爲倭所并=或=わく=ある。ある~。とある。不特定の物事を指すことば。ある。あること。存在する。日本。乃=だい=すなわち。そこで。そういう理由で。つまり。小國

爲倭所并=爲=い=おさめる。まとめる。統治する。倭=わ=倭國。所=しょ=ところ。場所。所在。并=へい=あわせる。あわす。一つにする。

故冒其號使者不以情故疑焉=故冒(表音仮名)=こもう=虚妄=うそ。いつわり。虚偽。きょもう。其號=きこう=紀綱=「紀」は細い綱、「綱」は太い綱》国家を治める上で根本となる制度や規則。綱紀。

(號)使(表音仮名)=こうし=公使=国家を代表して外国に駐在し、外交事務を取り扱う職務。また、その人。大使に次ぐものとされ、普通は特命全権公使をいう。

(號)=こう=名づける。称する。(公使)者=特定の人やものを指し示すことば。

<注釈>

以下の部分の五経文法は緻密である。

<解読>

不以情故疑焉=不=ふ=「~しない」「~でない」の意を表す。以=い=もちいる。使う。使用する。

以=い=もちいる。使う。使用する。→日本國名

以情(表音仮名)=いせい=(注 1 為政=政治を行うこと。)(注 2 威勢=人を恐れ従わせる力。「権力者の威勢に恐れをなす」

故疑(表音仮名)=こぎ=狐疑=ある事に臨み、うたがってためらうこと。

焉=えん=「いずくんぞ」と読み、「どうして・・・か」の意。文末につけて、語調をととのえる助字。

疑焉(表音仮名)=ぎえん=魏延

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AD%8F%E5%BB%B6

 

※ 魏延の兵は皆魏延が悪いことを知っていたため命令を聞かず四散してしまい、やむを得ず北へ向かって逃走。結局、追いつかれた馬岱によって斬り殺された。

 

<要約 2 >

焉⇒「いずくんぞ」と読み、「どうして・・・か」の意。文末につけて、語調をととのえる助字。章節の全文に掛かる。

つまり、日本は小国ということか、?治める九州を合わせて一つにするということか、もともとが虚妄(こもう)、紀綱の公使者か。

 

又妄誇其國都方數千里,南、西盡海,東、北限大山,其外即毛人云。

<表音仮名解読>

又妄誇=又(表音仮名)=邑。ゆう=また。さらに。そのうえ。妄=ぼう=みだり。うそ。いつわり。でたらめ。道理に合わないこと。誇=こ=ほこる。いばる。自慢する。

又妄誇=又(表音仮名)=邑。ゆう=また。さらに。そのうえ。妄=ぼう=みだり。うそ。いつわり。でたらめ。道理に合わないこと。誇=こ=ほこる。いばる。自慢する。

(誇)其國=(誇)其(表音仮名)=こき=古記=ふるい記録。旧記。其國(表音仮名)=きこく=貴国=相手の国を敬っていう語。

都方數千里=都=と=みやこ。數=そく=(いくらか。いくつかの。数=すう。)千里=せんり。

數(表音仮名)=(そく・す・すう・さく・しゅ)=数・州

※ 約千里=(注 唐時代の1里=0.56km×1000里=560km(福岡県大宰府市~神戸~京都府630km、国道2号線Google) 直線距離=約530km

千(表音仮名)=せん=銭。里(表音仮名)=り=厘・離=はなれる。

南西盡海=南西=だんさい=南西は方角を示す。西南は土地を示す。盡=じん=つきる。つくす。おわる。海=かい。

東北限大山=東北=とうほく=東北は、土地を示す。北東は方角を示す。限=げん=かぎる。区切る。範囲をきめる。大山=だいさん。

其外即毛人云=其=き=その。それ。人や物事を指ししめす。即=そく=つく。近づく。くっつく。毛人=もうじん=蝦夷(えみし、えびす、えぞ)。

云=うん=いう。声に出していう。他を引用していう。

 

<注釈>

この記述の時期は、白村江の戦いに敗れ、唐の占領軍(GHQ)通説では二千人、解読確認では三千人が九州に進駐して占領下におかれた状況で唐の本国の記述で遣唐使との記述となります。

 

<表音仮名要約>

叉、嘘、いつわりを述べて、道理に合わないことをしないように、古記の古い記録にある、貴国が遷都する邑=領地は東に約1000里。

その領地はことごとく海で、東北は大山、その外は毛人=蝦夷と言っている。

 

<注釈>

自身、記述していて、この要約では納得がいかない、どこの部分がおかしいか、わかるでしょうか。

(東に約1000里。)、東はどこの漢字史記から引用しているのか、千里から六文字後の東を千里の前にもってくるような、いい加減な文法ではありません。

回答=都方(表音活用仮名)=都方=とほう=兔=と=卯方位=うほう→東方數千里。

叉、漢字字数を増やして熟語を創作したり、解釈できない漢字を飛ばしたりはできません。こじつけ表音仮名も禁止です。

 

表音読みの順番を変更すると、本来の深層の意味熟語に支障をきたし、解読できません。

 

<表音仮名、深層=ディープランニング要約 3 >

叉、嘘、いつわりを述べて、道理に合わないことをしないように、古記の古い記録にあるように属國である、徒法、正しい法則を断裁しないように取り上げるが、その回答は(佩韋佩弦)を厳守。(貴国は帰国)して、遷都する邑=領地は東方に約1000里。

 

題簽(記録書の題字を付け)書き記している。

其外即毛人云=その外即(表音仮名)=がいそく=手の届かない遠い所へ、毛人(表音仮名)=もうじん=蒙塵かと、問う。

蒙塵=もうじん=「春秋左伝」僖公二十四年から。天子が行幸するときは道を清めてから行くが、変事の際はその余裕がなく、頭から塵 (ちり) をかぶる意》天子が、変事のために難を避けて、都から逃げ出すこと。みやこおち。

 

<まとめ>

魏志倭人伝古事記、日本書記を解読して判明したことは古事記、日本書記は時の政権に都合の悪い魏志倭人伝の記述は歴史からは削除。

だからと言って古事記、日本書記がでたらめかというと、史実が記述されています、江戸時代から延々とつづく大罪誤訳により、史実が捻じ曲げられています。

邪馬壹(臺)國の所在地は九州福岡県八女市、近郊で那國の血族宗家と狗奴國の血族分家の延々とつづく政権抗争、那國宗家の血族の雄略天皇が中興の祖ですが、男系血族が途絶えます。

古代の漢時代(後漢の皇帝血族も前漢で途絶え6~7代の遠遠血族で再興、これに見習い、継体天皇を即位させ出自は越後だはありません、越州(浙江省紹興)

邪馬壹(臺)國以前より多くの倭人自治していました、越州朝貢が証です。

 

<自説を結論づけるための推察>

そもそも、那國の血族と狗奴國の血族が争うのか、双方とも、我らの血族が宗家で正しいと主張していると思われる。

※ 史記で解読できるのか?⇒伊都國(陳寿の記述でも見下した國名ではない。)イザナギ伊邪那岐、伊と那國の漢字が使われている、(伊)にこだわっていると推察。

※ 天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命古事記』・彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊 『日本書紀』、古事記では(建)は那國の宗家の血族?、

※ (諱・諡)を解読⇒要約⇒丙 申 西暦276に 年司馬 炎(しば えん)に朝貢、伊尹が祖である、?⇒まゆつば、何かの間違い。五経文法の間違い、?

※ 殷本紀 伊尹名阿衡。阿衡欲奸湯而無由,乃為有莘氏  媵臣,負鼎俎,以滋味湯,致于王道。  

※ 通説の読下しh料理の誤訳。

※ 解読すると殷の宰相の公労で400町歩の土地を賜った、東の夷(倭)國から来、(乃・能)が現れましたので、以前は日本神話に登場する(乃=地神・能=弁神)がなぜ土地の神なのか理由が不明。

※ ようやく納得できました。那國の血族と狗奴國の血族も源流は同じ祖の伊尹と結論づけました。

新唐書/卷220と年代の相違が見られますが大した問題ではありません、史記を解読できない学者、研究者が欠史八代だのの論法を唱えますが、周~漢~魏~唐の政権は属國に対して、甘くはありません。

重い税を倭国の歴代政権に要求しています、逃れられますか延々と朝貢しているということは税を納めているということです。

白村江の戦いに敗れ、敗戦、九州政権の占領、大東亜戦争の敗戦(GHQ)よりきつい状況で東大地震震災と同等の大地震が九州を襲い都が壊滅状態で、唐の占領、3度の天変地異、遷都は自然の成り行きです、壬申の乱の平定後西暦672年に遷都、場所は京都ですが持統天皇の時奈良に遷都。

 

※ 遷都してから九州で付けた名称と同一名称にしただけです。

 

<疑問が湧いてきます、簡単に遷都ができるのか?>

古代中国の漢に習い、羈縻政策(きびせいさく)を歴代の天皇により平定してきたと思われる。その後、基盤となる五畿七道(ごきしちどう)には諸説あるが同等の政令は存在したのではないか。

羈縻政策(きびせいさく)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%88%E7%B8%BB%E6%94%BF%E7%AD%96

五畿七道(ごきしちどう)

古代日本の律令制における、広域地方行政区画である。畿内七道(きないしちどう)とも呼ばれた。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E7%95%BF%E4%B8%83%E9%81%93

 

<複都制>

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A4%87%E9%83%BD%E5%88%B6

中国の複都制は都市国家時代の周に始まる。渭水流域の盆地である関中に起こった周は東方の華北平原諸国の盟主であった商(殷)を滅ぼすと、東方諸国を支配する拠点としてこの平原への出口である洛水流域の要衝に洛陽を建設して、後の長安の前身となる関中の鎬京と洛陽の二つの拠点から臣従する都市国家諸侯に盟主として臨んだ。

 

※ 次回、(新唐書/卷220、⇒(西暦651年)天智死,子天武立。死,子總持立。(西暦670年)唐が倭國に対して疑念を抱く記述、それに対して倭國(日本)の対応記述。

※ 日本書記、天武天皇記上の記述と35年間のずれがある。

※ 漢に見習い、複都制を立案画策、近江京(都)弘文天皇 (大友皇子)。倭京(都)天武天皇。すべて唐の占領から逃れ、600年余りの属國から独立国に歩み出すため。天武天皇、入東國、壬申の乱で勝利。

※ 次回解読

是月、朴井連雄君、奏天皇曰「臣、以有私事、獨至美濃。時、朝庭宣美濃・尾張兩國司曰、爲造山陵、豫差定人夫。則人別令執兵。臣以爲、非爲山陵必有事矣、若不早避當有危歟。」或有人奏曰「自近江京至于倭京、處々置候。亦命菟道守橋者、遮皇大弟宮舍人運私粮事。」天皇惡之、因令問察、以知事已實。於是詔曰「朕、所以讓位遁世者、獨治病全身永終百年。然今不獲已應承禍、何默亡身耶。」

 

※ 誤訳の通説読下しとは異なります。

 

 

10 南至邪馬壹國 女王之所都は福岡県八女市が卑弥呼女王國の中心部。

南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月 官有伊支馬 次日彌馬升 次日彌馬獲支 次日奴佳鞮 可七萬餘戸

 

<邪馬壹國への到着日と歓迎行事日>

壬子(みずのえね、じんし)=西暦232年4月29日~5月4日

4 月 29 日 邪馬壹國、到着日

 

<注釈>

東洋の太陰太陽暦では月の日数である大小(大月30日、小月29日)が年により異なるため、4月29日までで4月30日は存在しない年もある。

 

5 月 1 日 官有伊支馬、2 日 次日彌馬升、3 日 次日彌馬獲支、4 日 次日奴佳鞮。

 

<邪馬壹國の所在地>

北側は筑後市九州新幹線の東側、(現)八女市みやま市大牟田市の北側。(堂面川以北)

金、銀鉱山=星野鉱山(八女市)が存在した。

※投馬國の役割が都護府とすると大牟田市の北側は狗奴國と隣接しているので、投馬國の領地と想定する。

※邪馬壹國は自衛防衛軍兵で防御すると考えると、邪馬壹國の領地

 

南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月 官有伊支馬 次日彌馬升 次日彌馬獲支 次日奴佳鞮 可七萬餘戸

 

<解読>

南至邪馬壹國女王之所都水行十日陸行一月官有=南に至ると邪馬壹國で卑弥呼女王の所都有、水行10日、陸行一ケ月間。

<注釈>

前節の投馬國の(水行(借字)二十日=遂行二十日、国税調査機関)、(水行十日、陸行一月=魏國、都=洛陽~狗邪韓國~邪馬壹國までの行程期間の記述。

今までの通説読み下しは、五経文法が理解できないのでチンプンカンプンになり、大罪誤訳となる。

<注釈>

伊支馬=(狗奴國王=イザナギ)が馬術を披露、卑弥呼女王の血縁、叔父?。卑弥呼亡き後、(禅譲=帝王がその位を世襲せず、有徳者に譲ること。)迫り、イザナギ人間性を魏国の検使に問われています。

イザナギ倭国を自分の政権打ち立てようと、大戦を引き起こします、記述は後にします。

 

<注釈>

(狗奴國王=イザナギ)が馬術を披露、疑問を抱きませんか、次の次の記述の一章節で狗奴國は卑弥呼女王國に属さないと記載されています。

(狗奴國王=イザナギ)が魏國の使節団の歓迎の宴に馬術を披露をしています、邪馬壹(臺)國(那國)と対等’同等)と考えていたと思われます。

制詔 親魏倭王卑弥呼を正式に授与されていないことと、魏國に威厳を示すためですが、魏國の使者に嫌われます。

 

<解読>

有伊支馬 次日彌馬升 次日彌馬獲支 次日奴佳鞮 可七萬餘戸

初日、イザナギによる馬術披露、

有伊支馬=(注 1 有=ゆう=しめす、伊=い=イザナギの略字、支(借字)=し=差=し、(差馬=差し馬=馬術

 

次、2日目、馬頭琴、笙による演奏宴会、次日彌馬升=(注 2 次日=次日=次に日、彌=び=A意味=ひさしい。B(借字)美=び=うつくしい=美女による、馬=馬琴、升(借字)笙=ふえ。しょうのふえ。管楽器の一つ。 雅楽

中国の伝統音楽・楽器 【図説】

http://chugokugo-script.net/chugoku-bunka/ongaku-gakki.html

三国・魏・晋・南北朝時代の音楽

魏志倭人伝古事記、日本書記をまともに解読できないことで、おかしな歴史論法になる。

日本には奈良時代ごろに雅楽とともに伝わってきたと考えられている。

 

次、3日目、次日彌馬獲支=(注 3次日=次日=次に日、彌=び=A意味=ひさしい。B(借字)美=び=うつくしい、馬で、獲支(借字)=かくし=獲之=鳥獣を捕らえる。=猟にゆく。 

 

次、4日目、次日奴佳鞮可=(注 4 次日=次日=次に日、奴=妓生 (きしょう)(佳=顔かたちが美しい。よい。美しい。立派。すぐれている。すばらしい。(鞮=鞮鼓の舞い)可=よい。よろしい。 

<注釈>

鼗鼓(とうこ、ふりつづみ)は、雅楽に使われる打楽器の一つです。

『文献通考』には、鼗として、麻・鞞・鞮とあり、料として鞀があり、同類の楽器のようです。

http://houteki.blog106.fc2.com/blog-entry-2595.html

<注釈>

妓女(ぎじょ)は、中国における遊女もしくは芸妓のこと[1]。娼妓、娼女という呼称もある[2]。歌や舞、数々の技芸で人々を喜ばせ、時には宴席の接待を取り持つこともあった。娼婦を指すこともある。

 

YouTube 動画参照>

黃真伊--ファンジニ

https://www.youtube.com/watch?v=ffk37mnfmI0&list=RD9BSpIvRiLHA&index=2

Hwang Jin-Yi

https://www.youtube.com/watch?v=4pOdvR6jaiM

 

<日本の古代史の大罪誤訳、すべての漢文史記も同様です。>

南すると邪馬台国(邪馬壹国)に至る。女王が都する所である。水行10日、陸行1月。官は伊支馬(いきま)が有る。

次いで弥馬升(みましょう)という。次いで弥馬獲支(みまかくき)という。次いで奴佳鞮(なかてい)という。推計7万余戸である。

浅知恵な歴史大学教授、研究者、講演会で勝手な論法を講演している研究者はこの程度調べてみてはいかがですか。

史記漢文の区切り(スペース区分の間違い。次日奴佳鞮 可七萬餘戸=次日奴佳鞮(区切り)可七萬餘戸⇒次日奴佳鞮可 七萬餘戸=次日奴佳鞮可(区切り)七萬餘戸。

原文には無い区切り、スペスを勝手に入れ通説解読しているので、正しい解読ができない。

 

<注釈>

A 七萬餘戸=戸主で人口数ではありません。戸主(男夫)=1人・婦人(多妻=1人~2人)・子供(2人)・奴婢(下僕、侍女、2人)=合計人数 6人

 

B 七萬餘戸=戸主で人口数ではありません。戸主(男夫)=1人・婦人(多妻=2人~3人)・子供(2人)・奴婢(下僕、侍女2人)=合計人数 8人

 

※ 邪馬壹國の人口は40萬人~56萬人、ブログ閲覧してくださる読者様も考えてみてください。食の観点から広大な露田(田んぼ)耕作地が無いと居住できません。 

※ 現在の地域では九州、筑紫平野、3世紀の奈良(幾内)では耕作面積が少なくむずかしい。離れた地域では関東平野

※ 寒冷地域で農耕できる品種米は3世紀(古代)にはありません。

※ 古代中国の魏國(黄河流域)は寒冷なので稲作ができないので倭國(邪馬壹國)属國から税として難升米(借字)なんしょうまい=南春米=なんしょうまい。を治めさせた。

春米=しょうまいPC辞書で検索してください。

※ 古代中国の南部(揚子江流域)は稲作をしていましたが、東シナ海の運搬は困難で揚子江黄河までの運河が完成して米の運搬が可能。

 

<まとめ、総合検証>

邪馬壹國の露田面積=七百里(700町歩=7000反(収穫量=現在は平均=7俵(玄米60kg×7俵)、古代の収穫量を6俵で計算すると42萬俵となります。

邪馬壹國の戸主の戸数を考慮して想定計算をする必要があります、、叉、計算上で3分類に分けてみました。

A 邪馬壹國(對海國、 一大國、 末慮國=自給自足國=8000戸主)

B 邪馬壹國(投馬國=20000戸主=邪馬壹國の都護をするために8州又は十三國で賄う。)都護府徳川時代の江戸詰めで江戸屋敷を築いて防護を行う行政と同じ仕組み。

C 邪馬壹國(伊都國、 奴国、 不彌國 、 邪馬壹國=那國=92000戸主)※ 奴國=奴婢を優遇しないと、反乱を起こすおそれがありますので、ここの分類に入れました。

※ 中国,漢の地方統治制度。前漢の高祖は初め一族や功臣を諸侯王国に封じて,封建制と郡県制と併用したが,これを郡国制という。

※ 邪馬壹國=那國も統治制度として、郡国制を実施して刺史(官大夫、大夫を派遣、率=3200兵、裨将=1600兵、校尉=800兵、)したのではないかと想定。

※ 上記のように想定しないと、米の収穫自給量では不足する、叉、邪馬壹國の属國、羈縻政策(きびせいさく)=吉備國から税(米)徴収を行ったと思われる。同様の政策が魏國から強要されている。

 

<邪馬壹國・邪馬臺國の記述名称の表音読み論争>

【実に馬鹿げている】

陳寿東夷伝魏志倭人伝)に記述した邪馬壹國=やまいちこく。(注 1 やまいこく、ブー、でたらめ表音読み、いと表音読みをすると五経解読が成立しません。)

 

五経表表音仮名の解読のヒント>

【事例】

音声認識(表内表音=+番号認識+積算算術で解読前提にたどりつきます。

New YORK,史 Goole Around 100里東京離旅乗人本社到→(通説の読下し=ニュウダブリュ、ヨーク、ゴオオレイ、これでは、音声認識ができません。

 

多くの学者、研究者の解釈は東京を離れニューヨークの本社まで100里、旅に乗人で到るとなります。

一般社会の報告書でも通用しません、ましてや正史ですよ。

 

【ニューヨーク・グーグル】と読下しすると、積数が表れ、加算すると100(里=表音仮名=離)

積算 1 が距離=100里で仮名表音が正しいことが証明されます。

積算 2 が実測距離の解読=ローマ字の大文字のみ積算=50×(乗=和算用語)(旅=軍事用語単位=500兵)=25000(数)×戯國の長里=0.43=10750km

N=10,E=0,W=0, Y=10,O=1O,R=10,K=10,,G=10,o=10,o=10,o=0,g=10,l=10,e=0,

ここまでの解読ですと、単にニューヨークのグーグル本社まで10750kmまでの解読で正史には適しません。

陳寿史記はこのように読み解きます、N=北、Go=行く。

人数は?=史表音仮名(注 今回は(止=止める)(N=10,E=0,W=0, Y=10,O=1O,R=10,K=10)=の積数は乗人数から除外。残り=10で10人の史=ふびと。記録をつかさどる役人。

 

 

<要約>

北回りで距離10750kmの旅でオビトが10人ニューヨーク本社に出航に到る。

 

<まとめ>

この五経を基軸と解読に到達した歴史学者(中国、日本を含め古代漢文史記)は皆無で、解読できず、我が国ではテニヲハ、オコト点、等で誤訳をして現在に至っています。

漢文史記のすべてが誤訳で原文は正確に記述されています。、

疑問、古代中国の正史は仮名表音が日本と異なる疑問が湧き、甲骨文字(漢文変換)で解読、その他の古代中国正史で解読をしてみました。

中国の表音と日本の表音はことなりますが、現在の中国人が中国語仮名表音でこの五経基軸文法活用の手法を使えば同じ解読ができると確信しています。

そこで、陳寿魏志倭人伝の解読に挑戦して、判明したことは、とても難解で五経の他に古代中国の歴史を紐解かないと、どうしてこの漢字が割り当てられているのか理解できませんでした。

ちなみに山海経はもっと難解。黒歯國の所在地を検証するために解読、通説とは全く異なる解読でした。ペルシャ國、距離検証、マングローブの大木記述有り。

 

邪馬壹國の四文字の漢字に陳寿武帝の記述、三国志以前の著作名称、益州の地方史である『益部耆旧伝』略歴等、倭國=九州の国々の名称等が凝縮されています。

通説で馬鹿げた論争がつづいているので邪馬壹國という名称をなぜ陳寿は記述したのか疑問をもちました、倭國と単に記述しなかったのか。

 

邪馬壹國の四文字に五経文法活用で記述され、現在ならば、デープランニング構成に、なっています。

國(表音仮名活用=こく=國・刻・玉・哭、(事例記述、乙丑(西暦245年)イザナギの仮政権時代、倭国より朝貢。【若者乍八卦藉写】=若者が八卦の書籍を写して哭=泣いて喜んだ。ということが隠れています。)

【制詔 親魏倭王卑弥呼】を賜る以前は邪馬壹國

 

※ 次、次 は後半記述になります、自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳 次有斯馬國~次有奴國 此女王境界所盡。戯國による税の徴収のための国税調査報告書。

 

※ 後半は格言、論語がちりばめられ、さらに難解になります。

09 南行至投馬國の所在地、現在は久留米市大善寺駅、実測測定着地点の積算算出距離。

南至投馬國 水行二十日 官日彌彌 副日彌彌那利 可五萬餘戸

<所在地>

陳寿の記述で実測距離は経典(四書五経)の漢文(借字)特殊文法活用で実測距離は積算算出して表れます。

 

<当方のブログを閲覧してくださるみなさまへ>

現在に於いても、政権を担う公人の重要書類、書簡は秘密保持が維持されています、古代の同様ですが、PCパスワードも存在しないので、五経文法が活用されます。

しかるべき公人にしか解読できないようになっています。

不彌國~投馬國~邪馬壹(臺)國へ到るまでの距離は記述されています、実測距離は積算算出して表れます。

不彌國~投馬國=77里=33.88km=うきは市(現、古墳群の中心所在地~福岡県久留米市大善寺町(駅周辺)

Gooleマップ測定距離=33.66km=徒歩=6 時間 58 分(33.6 km)

投馬國~邪馬壹(臺)國=36里=15.84km、福岡県久留米市大善寺町(駅周辺)~大字久泉、福岡県八女郡広川町

 

<注釈>

Gooleマップ測定距離=直線距離ではありません。

<注釈>

当時もある程度の路(道路)も整備され、直線上は武器、織物の原料植物栽培や、湧水があったと思われます。

福岡県久留米市大善寺=出発地点

福岡県筑後市大字羽犬塚=7.8km

福岡県八女市亀甲=2.8km

福岡県八女市吉田773=2.4km

大字久泉、福岡県八女郡広川町=2.2km

Gooleマップ測定距離=合計距離=15.20km

<注釈>

八女郡広川町へは南側道路からが謁見道路となります。

古くから「天子南面す」と言われるように玉座は南、太陽の方角を向いていました。

 

<邪馬壹(臺)國の所在地の断定理由>

八女市 福岡県八女市吉田1396−1に所在する岩戸山古墳と推測したからです。

魏志倭人伝の記述(卑弥呼以死 大作冢 徑百餘歩)五経文法積算算出の結果、同等寸法と陵墓の形状を考慮して判断いたしました。

八女郡広川町が邪馬壹(臺)國の中心(太極)、八女市 福岡県八女市吉田1396−1に所在する岩戸山古墳の方位は西南の鬼門で守り神として鎮座する陵墓。

 

陳寿魏志倭人伝の実測距離はすべて都(洛陽)~邪馬壹(臺)國至るまで誤差が少ない法里で記述されています。

魏國=1里=0.43416km=(繰り上げ=0.44km)

 

南行至投馬國の所在地は現在は久留米市櫛原町(久留米大橋下河川敷グランド近郊、北側が、(伊都國の國境、筑紫川の向こう岸)

南、投馬國との國境は高良大社~東に筑紫川に直線を引いた線上が領土(以南が投馬國)

東側は有明海(注 現在の地図とは相違があると思われます、福岡県大川市一部(当時は筑紫川河口又は有明海吃水域、福岡県大木町不明(有明海?)

 

<注釈 1 >

<投馬國=五萬餘戸×家族構成人数=(兵員=夫=1人、婦人=1人、(妾=3人~5人)、子供=5人、死亡率を考慮して平均=6人~7人=30萬人~35萬人>

(注 兵員数=7割想定、老人を除く、=3萬5千人)

<邪馬音(臺(國=七萬餘戸×家族構成人数=(兵員=夫=1人、婦人=1人、(妾=3人~5人)、子供=5人、死亡率を考慮して平均=6人~7人=4.2萬人~4.9萬人>

(注 兵員数=7割想定、老人を除く、=4萬9千人)、備考、投馬國兵員数=4萬人、奴國=奴婢兵員数=2萬人。邪馬壹(臺)國自衛防衛軍、総合計=約10萬人

 

上記の記述は魏志倭人伝の記述の後半で邪馬壹(臺)國の自衛防衛軍と狗奴國との戦が始まります、その記述で防衛軍事訓練で兵員数が記述されていますので、ご記憶ください。

 

<注釈 1 >

投馬國=五萬餘戸+邪馬壹國=七萬餘戸=合計十二萬戸(こ=戸主=12萬人)×(平均家族=6人~7人)=4.2萬人~4.9萬人

12萬戸主家族以外に鮮卑(下僕、使用人)の存在があります、衣食住を検証する必要が生じます。

投馬國の検分視察期間は1週間で露田の実測検分も無いのに、期間が長い、想定としては邪馬壹(臺)國に従属する十三國の出先機関(藩)及び、護衛軍の護官、兵員等の國

九州の各為(い=統治する)王の一族の人質。

 

<注釈 2 >

藩=地方を治めて、王室の守りとなった(邪馬壹’臺)国の属國=諸侯。)

古代中国の周で、王室を護衛する諸侯を藩[1]と呼んだのが由来とされる。転じて、国を冊封された諸侯一般、およびその領地を指すようになった。

 

冊封(さくほう、さっぽう)又册封とは、称号・任命書・印章などの授受を媒介として、「天子」と近隣の諸国・諸民族の長が取り結ぶ名目的な君臣関係(宗属関係/「宗主国」と「朝貢国」の関係)を伴う、外交関係の一種。

 

逆に、邪馬壹(臺)國からは従属國に(刺史=しし)の派遣と従属國の防衛補助兵員の派遣。

邪馬壹(臺)國に対し政治行政と組織の検分と思われます。中国の漢時代に行われ、倭国で(二十等爵、爵制)が実施されているのかを確認し詳しく検分。

 

<投馬國・邪馬壹國(那國の戸主(戸数が多いので比較として下記を記述。>

加賀藩前田家

加賀藩前田家、1721年、物語藩史6巻、人口約70万人、武士人口は67302人、人口の約10%

武士人口と一口に言っても(老人や子供、女子も含む)、軍事組織の人員として期待出来るのは戸主のみ。

明治元年における加賀藩の武士は士分7077戸、卒分(足軽以下)9474戸の合計16551戸、1戸につき約4人妥当。

 

<邪馬壹(臺)國=自衛防衛軍兵=想定兵数=10萬兵>

<所在地、備考>

投馬國と邪馬壹(臺)國の人口密度を考慮すると、二國間の國境は現在地図上では九州新幹線矢部川下流の東側が投馬國、

西側が邪馬壹(臺)國(現、八女市みやま市大牟田市以北が想定されます。

 

南至投馬國 水行二十日 官日彌彌 副日彌彌那利 可五萬餘戸

 

<解読>

南至投馬國水行二十日官日彌彌副日彌彌那利可五萬餘戸=南に行くと投馬國に至る、(注 検分、水行(借字)=すいこう=遂行=二十日間、4月9日~4月29日

副日彌彌那利可五萬餘戸=4月29日、彌彌=(何度も繰り返し見て。また、見ること。)(那利=だり=接助=事例=楽しんだり、飲んだり)、五萬餘戸

那利可=(もう一方の意味は那國より階級的位置的に低い国)

 

官曰彌彌、副曰彌彌那利=官は彌彌(みみ)という。副は彌彌那利(みみなり)という。=官職ではありません、叉、表音読みも間違い。

この後も通説では官職としていますが、でたらめ解読で日本史の計り知れない汚点です。

 

<解読 積数算出日時 1>

官日彌彌 副日彌彌那利

4月22日、4月29日

<解読 漢文(借字)読下し 2>

官日=かんじつ=閑日=ゆったりと過ごす日

彌彌=(何度も繰り返し見て。また、見ること。)魏国による属國の国税調査なので事細

かく検視。

延べ八日間も検視しています、(五萬餘戸×5人家族=25萬人になります、4人家族で20萬人

後の記述で出てきますが、家族構成(階級=上戸=男子1人に対して婦人4.5人、下戸=男子1人で2.3人)有しています、男子、老人=5萬人~7萬人・婦人=12萬人・子供=6萬人=想定人工

露田(田んぼ)の記述はなく、20萬人~35萬人が生活するには生産食料の自給が不可欠となります、属國からの税の徴収だけでは無理が生じます。

魏國に対価は求められません、想定するのは貿易で財源をもとめるしか方法がありません。

1武器の輸出(刀、弓、矢)2(鉄製品の農機具=鍬、鋤等)3繊維(麻、紵=からむし、正絹、刺繡製品=金絲、染め正絹)4鉱物製品(金、銀、辰砂、朱=顔料、白水晶=白珠)

5 海産物(真珠、珊瑚、干し鰒、)

邪馬壹國の貿易相手國(現在の日本では長門山口県、(羈縻=きび=吉備=岡山県)、四国=愛媛県)古代中国では寧波市=ニンポー(呉)、羅國=シャム國、黒歯國=ペルシャ

資源の確保=鉄は属國の百済等(卑弥呼の時代は現在のソウルまで邪馬壹國の属國で倭國です。

金、銀、水晶等は邪馬壹國の東南=鯛生金山(たいお)…金・銀・銅・鉛、採掘は(南人=羅國、黒歯國)、(奴婢、卑弥呼の没で葬儀礼で喪に服しています。叉、殉葬。)

 

羈縻政策=きびせいさく、参考、吉備の語源>

羈は馬のおもがい,縻は牛の鼻綱を意味し,2字でつなぎ止める,牽制するの意味。中国諸王朝が外族内部の行政組織をそのままにして外族を統御する伝統的政策をいう。

すでに漢代には外族の首領に対し爵位,恩典を与えて王朝と結びつけようとしており,唐では羈縻州といって外族の部落に州や県をおき,その首領に唐の官名である都督や刺史を与え,都護府がこれを統括した。羈縻州は内地の州をはるかに上回り,850州余もあったといわれる。

 

<なぜ、くどくど説明を記述するのか、1700年間も解読されず、誤解釈のオンパレード、お付き合いください。>

 

魏國の天子の詔勅倭国国税調査検分に来た検使の上奏報告書を、後年(晋國の天子の正史の記述者として任命された陳寿)がどのように記述したのか、できるだけ正確に解読するためです。

投馬國は五萬餘戸(戸主)が有、露田は無く、1週間も滞在し、ボーと過ごしていたのか疑問が湧きます、叉、投馬國、邪馬壹(臺)國(那國)の合計戸主総数は12萬戸に及びます。

邪馬壹(臺)國の人口数を検証する過程で単純に(戸主の家族構成数)を積算、乗算すると誤差が大きくなるので二十等爵の爵製を反映して計算した結果。

 

邪馬壹(臺)國=総人口、100萬人

(内訳)

對海國 一大國 末慮國 =48000人

奴国         =120000人

伊都國 不彌國    =60000人

小計=228000人

投馬國        =338200人

邪馬壹(臺)國(那國)=444500人

結論結果は次回、南至邪馬壹國 女王之所都 で解読記述を説明いたします。

<従属国、付庸国

内政や外交の処理に関して他国 (宗主国) の指示に服する国。国際法上,宗主国の国内法に基づいて外交関係の一部をみずから有するが,他の一部は宗主国が有する。

付庸国は、一国の一部が国内法により独立的地位が認められたもので、なお邪馬壹(臺)國は従属関係國。

漢書、「百官公卿表上」には爵は「功労を賞する」とあり、国家に対して功労があったものに爵が与えられるとしている。実際に功労によって爵が与えられた例も数多い。

具体的には軍功に対する賜爵、政府に多額の財貨を納めて爵を買う買爵、辺境に新たな邑を作る際に移住した民に対する賜爵などがある。また民衆同士で爵の売買を行う事例もある。

ここで殷王や周王の権威に服した大邑の君主が「諸侯」、王や諸侯の君臨する大邑が「國(コク)」である。 [4] 殷や周といった古代王朝の実態はこのような邑の連合体であり、

その総数は周初で1,700、東周時代で1,200を数えたとされる。

邑から成る社会の発展に伴い、君主の在所である大邑を「都(ト)」、それに従属する小邑を「鄙(ヒ)」の字でも表現するようになる。

紀元前106年、武帝は全国を13州(11州と2郡)に分け、各州に刺史を設置した。これにより郡県は州・郡・県3段階の地方制度に改まった。

<注釈>

二十等爵

爵の授受・剥奪・売爵

上述のとおり、二十等爵制は良民の男性なら庶民でも爵が与えられるのが大きな特徴である。年齢制限は無い。賤民(商人・奴婢・罪人など)は対象外である。

<まとめ>

邪馬壹(臺)國の所在地を投馬國の節で記述したのは、距離を確認するのに記憶がうすれるからです。

 再三に渡り記述していますが、魏志倭人伝は旅行日記的記述ではない、魏國が属國に厳しく行った国税調査報告書、我が国で通説読下し記述では晋國の天子に献上するにしても、丞相、高官に叱咤、激高の後に、廃棄されるような誤解釈読下し文である。

08 魏志倭人伝、東行至不彌國 百里 官日多模 副日卑奴母離 有千餘家 百里 露田 里は面積 Ⅲ。

東行至不彌國 百里 官日多模 副日卑奴母離 有千餘家

<所在地>

陳寿の記述で実測距離は経典(四書五経)の漢文(借字)特殊文法活用で実測距離は積算算出して表れます。

 

東行至不彌國の所在地は現在の朝倉市(小石原川東側)、うきは市、日田市、久留米市櫛原町(久留米大橋下河川敷グランド近郊、反対河川(筑紫川本流域に合流する宝満川、陣屋川地点の反対側(筑紫川南側(久留米市)が國境で南側が投馬國。

南側境、投馬國との國境は高良大社~東に筑紫川に直線を引いた線上が領土(以北が伊都國)

<解読>

東行至不彌國=東行、不彌國に至る。

百里=露田(田んぼ)、百里=現在の18ホールゴルフ1施設(30萬坪)

<誤解読>

官曰多模、副曰卑奴母離=官は多模(たも)という。副は卑奴母離(ひなもり)という。=官職ではありません、

この後も通説では官職としていますが、でたらめ解読で日本史の計り知れない汚点です。

 

<解読 積数算出日時 1>

420日、4月22日

 

<解読 漢文(借字)読下し 2>

多模=多くの(模=ぼ=捺染(なっせん)

卑=自分をへりくだっていうことば。

奴=(表音借字)=ど=土=領地。(注=漢字の(表音借字)は特殊文法活用で積算算出に影響します、

漢字一句の場合の意味、熟語として記述されている場合で奴の場合(音読み=ぬ、ど)2種の音読みがあり、文脈をよみとり解読します。

母=も(借字)=莫=くれ。夕暮れ。日暮れ。夜。

離=り=はなれる。

<注釈>

(家=卑弥呼の一族を表しています)不彌國は背後に現在の日田郡に存在した金鉱山を有していました、北西に向かうと伊都國(都)の領地と思われる(現=武雄市=波佐見水銀鉱山)

後の記述ででてきますが、(辰砂=朱=顔料)(金=金絲)等を生産し、奴婢を使い養蚕、絹織物を産業として魏國の朝貢献上品、裸國=シャム國、黒歯ペルシャ國等に輸出していたものと思われます。

<注釈、黒歯國所在地=ペルシャ國の検証>

山海経

有黑齒之國 帝俊生黑齒 姜姓 黍食 使四鳥

殷時代の帝俊=諡号=丁旬の記述。

黑齒國在其北 爲人黑 食稻啖蛇 一赤一青 在其旁 一曰 在豎亥北 爲人黑首 食稻使蛇 其一蛇赤 下有湯谷 湯谷上有扶桑 十日所浴 在黑齒北 居水中 有大木 九日居下枝 一日居上枝

山海経の記述実測距離は経典(四書五経)の漢文(借字)特殊文法活用で実測距離は積算算出して方位を確認して解読。

 

東行至不彌國 百里 官日多模 副日卑奴母離 有千餘家

<解読>

東行至不彌國百里官日多模副日卑奴母離有千餘家=東行、不彌國に至る百里、4月20日、4月22日夕暮れに離れる。(一族なので戸ではなく家になり、千餘家。)

多模=多くの(模=捺染(なっせん)などに使うための、模様を彫りぬいた木。)麻、正絹の染色版木を奴婢が彫刻していた。

<鉱山>

鯛生金山(たいお)…金・銀・銅・鉛

大分県日田市中津江村鯛生地区、白水晶。

白水晶=玉=古くは玻璃(はり)と呼ばれて珍重された。

璧(へき)は古代中国で祭祀用あるいは威信財として使われた玉器。 多くは軟玉から作られた。 形状は円盤状で、中心に円孔を持つ。

 

<邪馬壹(臺)國の所在地論争>

百里、伊都國、百里 奴國、百里、不彌國=露田(田んぼ)の面積で距離ではありません。

露田(田んぼ)面積合計は七百里

魏國に対して邪馬壹(臺)國の自己上申は=露田(田んぼ)面積合計は七百里、伊都國、奴國、不彌國で実測検分した後に(自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶、記述)

次有巳百支國~次有奴國 此女王境界所盡まで21ケ國の記述は魏國の天子に上納する倭國の国税調査報告書の記述。

邪馬壹(臺)國の自己上申に間違いはないと記述しています、詳細は、この一小節の記述を投稿した際に述べます。

魏志倭人伝陳寿の記述は表音漢字(借字)特殊文法で表音漢字活用や論語活用の引用を用いた記述で成り立っている。

積算算術もその中に含まれ七百里を表すためにこの文法を手法として採用しています。

陳寿が記述した時代は魏國→晋國時代ですが、いずれも属國からの税を取る國なので重要な記述と思われます。

安易に解読できないような漢文記述になっています。

現在に置き換えると、PCにパスワードを入力しないと開かないようになっています。

 

<注釈>

後世の奈良時代以前、奈良時代に朝廷の部として馬飼部=諜報機関の存在があり、手紙(重要文)送り解読するにはこの手法がつかわれたと思われる。

<部民制>

王権への従属・奉仕、朝廷の仕事分掌の体制である。名称は中国の部曲に由来するともいう。

例としては語部・馬飼部などがある。語部は、伴造(とものみやつこ)である語造(かたりべのみやつこ)氏に率いられ、古伝承を語り伝え、宮廷の儀式の場で奏上することをその職掌とした。

例としては王族・額田部女王に属した額田部、豪族・蘇我臣や大伴連・尾張連に属した蘇我部や大伴部・尾張部などがある。

ただし後述のように、朝廷に対する奉仕を媒介として設定される点では職業系の部と通底している。

<重要秘密文書の解読係>

陰陽師(おんみょうじ、おんようじ)は、古代日本の律令制下において中務省陰陽寮に属した官職の1つで、陰陽五行思想に基づいた陰陽道によって占筮(せんぜい)及び地相などを職掌とする方技(技術系の官人。技官)として配置された者を指すが、陰陽五行思想に基づいた陰陽道によって占筮(せんぜい)及び地相などを職掌とする方技(技術系の官人。技官)として配置された者を指す。

 

<まとめ>

陳寿は倭國の地理を知らない、誤字記述、方位がでたらめ、浅い研究を広める学者、解読できない研究者、きりがない。

自己解釈に都合の良いでたらめ研究論文を引用して講演している現状は滑稽である、漢字の一字一句を解読できない学者、研究者たちの馬鹿げた論争。

再度のブログ投稿記述の抜粋

01 魏志倭人 (1 伝倭人在帶方東南大海之中)(2 從郡至倭 循海岸水行 歴韓国)(3 始度一海 千餘里 至對海國) 国税調査検分報告の記述書である。

日本書記

氣長足尊 神功皇后

宿禰爲太子答歌之曰、

許能彌企塢 伽彌鶏武比等破 曾能菟豆彌 于輸珥多氐々 于多比菟々 伽彌鶏梅伽墓 許能彌企能 阿椰珥 于多娜濃芝作 沙

<概略解読>

<要約>

倭國の遠い古代の道義・学問・文化を軽侮のたぐいでこわしている(批判)を付け加えた正史である、祖師の示した教えで旅立ちで渡唐し入手したが、昔の書で月日を経ている。

<要約>

ここに、中国から自分と自分以外の者が持ち帰った正史はるか昔でこれはえこひいきするものである。

<要約>

正史は本来知識を得させ、その教養が増すことを手本として要素にしたものである、遠い古代の道義・学問・文化を欺く正史にしてはならないが野次の正史である。

<要約>

ここに、多くの正史をまとめて上梓するに当たり、良いものと悪いものを選り分け写す、上巳=陰暦3月初の巳の日,3月3日。

<注釈>

魏志倭人伝イザナギ神、神スサノオを強烈に批判、どうしようもない、生まれ変わった方が良いとこき下ろしているので古事記、日本書記の編纂に際し記述できない。

古事記、日本書記の編纂に際し,安萬侶,稗田阿禮 獻上

 

<通説>

神功皇后(二十七)此の御酒は 吾が神酒ならず

現代語通説、記述に与えしない

 

<当方のブログを閲覧してくれるみなさまへ。>

江戸時代から解釈されている読下し文に疑問を抱きませんか、中国、日本でも重要書類、議事録、手紙でも年月日を記述しないと常識がないと問われます。

陳寿が記述した正史(魏志倭人伝)の多く記述節には年月日が明確な記載ありません、それを認めた魏國、晋國の天子が馬鹿なのか、極楽トンボなのか。

それとも、江戸時代から解釈されている読下し文が誤訳なのか、記述に年月日が隠されて居るのか、深く掘り下げて研究することが学問と思うのですがどうでしょうか。

通説の読下しは正しいのか疑問をもちました。額田王の詩を漢字一文字の意味を羅列してから熟語の意味も検索し、当確する漢字では見当たらないので、PCにひらがな入力を行い当確する(仮借)漢字を引用して徐々に解読がすすみました。

額田王のある詩に(漏刻=水時計)の記述があり、解読しましたが文脈理論として刻の知らせ方と、一日に何回(太皷、鐘)を鳴らすのかと疑問をもちました。

試行錯誤を繰り返し、一定の文法を当てはめると48刻(積算算出)が現れました。

 

<漏刻 コトバンク参照>

https://kotobank.jp/word/%E6%BC%8F%E5%88%BB-152387

 

記述解読を進めていくと、額田王は詳細に漏刻製作説明を記述していました、現存している天智天皇の漏刻の図を精査して漢文(仮借)文字が当てはまるか確認しました。

余りのも綿密に記述されているので大変驚きました。

 

天智天皇の漏刻の図

http://www.kodokei.com/la_011_3.html

 

<当方が漏刻図の画像検分としての疑問が湧く>

通常、日本では昼(日)、夜といいます、夜、昼(日)とは言いません。漏刻の落差を付けた水箱名称(夜天地→日天地)となっています、(日天地→夜天地)にしなかったのか。

理由が判明いたしました、(夜天地→日天地)に命名しないと詳細寸法が積算算出できないのです。

倭国、日本の史記ではこの特殊文法で多くの史記を解読して納得ができました。

本家の古代中国ではこの文法が通用するのかと思い、多くの古代中国(殷)甲骨文字(漢文変換)史記にあてはめると少し異なりましたが解読できました。

 

御多分に漏れず、解読している大学教授、研究者の解釈は?魏志倭人伝と同様。

 

陳寿魏志倭人伝ではと挑戦、まったく解読不可能、(四書五経=仮借、論語)が使われていることに気が付きました、これは野馬台詩が西暦479年、宝誌記述 六十一歳。

 

漢文特殊文法の一章節が短文詩なので解読ができました、解読で判明したことは論語を織り交ぜていることでした。

 

異論、反論、疑問がありましたら、コメントをいただければ幸いです。

 

07 魏志倭人伝、東南至奴国 百里 官日兕馬觚 副日卑奴母離 有二萬餘戸 百里 露田 里は面積 Ⅱ。

07  東南至奴国 百里 官日兕馬觚 副日卑奴母離 有二萬餘戸

<所在地>

陳寿の記述で実測距離は経典(四書五経)の漢文(借字)特殊文法活用で実測距離は積算算出して表れます。

 

神埼郡から東南の國境が筑紫川支流の宝満川合流地点(福岡県久留米市小森野と佐賀県鳥栖市下野町の境界)

奴國の西側國境は宝満川流域が境界、北側は現、筑紫野市で東側は甘木市の小石原川の流域西側が國境、南側は筑紫川本流の北側。

現在の福岡県朝倉市魏志倭人伝の記述で奴國、不彌國にまたがっています。

 

<奴國の想定役割>

奴国=奴婢國=邪馬壹(臺)國の奴婢兵、農耕耕作、武器製造、銅鏡製造、絹織物(刺繡、染色)、玉の研磨等の産業労働調達と下級兵隊の國。

魏國、邪馬壹(臺)國へ上納するための織物産業に必要な原料栽培(注 1 綿畑、麻栽培、紵=からむし、栽培、養蚕に必要な桑の栽培。)

魏國、邪馬壹(臺)國へ上納するための織物産業に必要な原料採掘(注 2 染色=赤色=辰砂、べんがら。金絲=金加工、採掘)(注 3 後記に記述されている南人による鉱物採掘)

 

<鉱物の採掘場所>

金、銀鉱山=日田郡の金山=鯛生金山を中心として県境に沿った地域には、日田郡南部金山地帯が存在した。叉、星野鉱山(八女市)が存在した。

水銀、辰砂=波佐見水銀鉱山(長崎県)、相ノ浦鉱山(長崎, 大潟鉱山)、 平戸(長崎, 松浦)、因尾鉱山(大分, いんび) 、佐伯鉱山(大分, 鶴望鉱山つるみ, 大分鉱山Hg), 千怒鉱山(大分, ちぬ)

 

鉄鉱石、砂鉄=(注 1狗邪韓国=馬韓辰韓弁韓=当時、邪馬壹(臺)國の属國=魏志倭人伝の後記、記述有り)調達、(注 2 伊都國、佐賀県嘉瀬川の砂鉄=チタン磁鉄)

 

<武器>

刀、剣、盾、矛、戟(げき)弓、矢(箭)=鉄矢じり、骨矢じり等、鎧=防御服(身甲等、鉢巻)、その他=旗、璋旗、馬具。

武器、服装(鎧等)製造数量=魏志倭人伝の後記、記述有り)=およそ10万兵員分一式製造

<古代中国の武器参考>

古代中国の戦争

http://paulbeauchamp.org/

 

<閲覧していただく皆さまへ>

武器の製造について。

後記に記述されている一章節、邪馬壹(臺)国と狗奴國と戦になります、邪馬壹(臺)国が自衛防衛10万人が配備されます。

その際にあらゆる武器装備が必要になります。

想定製造数量(刀、剣=10萬口(口=数量)、盾、矛、戟(げき)=(少ない数量で4萬本)

弓、矢(箭)=鉄矢じり、骨矢じり等においては=10萬人の0.5割と想定として五千人が弓と矢(箭)を装備。

計算式=五千人分の弓、矢(箭)=五千人分の矢(箭)=敵に対して1日(最低20本として)100日分(3ケ月分、壬申の乱で約1ケ月間)=100萬本

矢(箭)=矢鉄矢じり、骨矢じり、矢(箭)=矢竹=(最低半年穂仕上げ、矯正(火で矯める)、矢羽根(鷹が最上ですが、雉、鴨の羽根5萬羽分

矢(箭)=製鉄、焼き仕上げ=矢鉄矢じり、研磨仕上げ=骨矢じり、矢(箭)矢羽根仕上げ、麻の留め糸、)1日の作業仕上げ=奴國の男子鮮卑1萬人、10本仕上げで100日間。

保存するためには矢の竹材、矢羽根に虫が付き破損するので防虫剤として樟脳が必要になります、魏國の朝貢献上品の品目に記述されています。

魏國の検視は武器の在庫を検分、(武器品目、数量等)を記述報告書を含んでいます。

農耕作業検分(露田の面積=邪馬壹(臺)国の自己申告に相違ないか検分調査書作成)、繊維織物の検分(染色、養蚕等、刺繡作業)城柵建築等、その他(倭人の生活)

 

<注釈>

有二萬餘戸=人口数(注 戸=1家族4人~5人として8萬人~10萬人が居住、労働力。

<注釈>

魏志倭人伝、長里、短理の論争は馬鹿げている、東南至奴国 百里 露田(田んぼ)の面積で距離ではない。

<面積>

百里=露田(田んぼ)の面積

 

東南至奴国 百里 官日兕馬觚 副日卑奴母離 有二萬餘戸

<解読>

<解読 積数算出日時 1>

官日兕馬觚 副日卑奴母離

4月18日、4月19日

<解読 漢文(借字)読下し 2>

 

東南至奴国 百里 官日兕馬觚 副日卑奴母離 有二萬餘戸

 

東南至奴国百里官日兕馬觚副日卑奴母離有二萬餘戸=東南、奴國に至る。

百里(露田=実測)、4月18日、4月19日夕暮れに離れる。奴婢(戸)二萬戸有り。

卑=自分をへりくだっていうことば。奴婢が(兕=水牛(馬)→(借字)奴=ぬ駑=老いたにぶい馬)で(觚=鋤)で耕していました。

<注釈>

奴=(表音借字)=ど=土=領地。(注=漢字の(表音借字)は特殊文法活用で積算算出に影響します、

漢字一句の場合の意味、熟語として記述されている場合で奴の場合(音読み=ぬ、ど)2種の音読みがあり、文脈をよみとり解読します。

母=も(借字)=莫=くれ。夕暮れ。日暮れ。夜。

離=り=はなれる。

魏志倭人伝の記述は単なる旅行記述ではありません、魏国による税の徴収のための国税調査団です、田んぼの面積が奴國は少ないので日数をかけて調査はしていません。

伊都國、不彌國、邪馬壹国 (那國)で取り囲んだ奴國(奴婢國)となります。

 

異論、反論、疑問がありましたら、コメントをいただければ幸いです。

 

 

06 魏志倭人伝、東南陸行 五百里 到伊都國官日爾支副日泄謨觚柄渠觚有千餘戸 丗有王皆統屬女王國郡使往來常所駐 五百里  露田 里は面積 Ⅰ。

魏志倭人伝、長里、短理の論争は馬鹿げている、東南陸行 東南陸行 五百里 到伊都國到伊都國の 五百里 露田(田んぼ)の面積で距離ではない。

魏志倭人伝は単なる紀行記述ではない、魏國による倭國(属國)に対して税を課すための国税調査検分記述。

 

東南陸行 五百里 到伊都國 官日爾支 副日泄謨觚柄渠觚 有千餘戸 丗有王 皆統屬女王國 郡使往來常所駐

<面積>

  五百里150万坪=露田(田んぼ)面積

  標準18ホールゴルフ場 5施設分

 

百里、伊都國、百里 奴國、百里、不彌國=露田(田んぼ)の面積

<距離の場合は基本、餘を記述、実測値は餘がないが例外がある。>

ただし、儒教の経典(四書五経=表音漢字(借字)特殊文法)解読する必要がある。

表音漢字(借字)特殊文法の積数については表音借字が正しい時だけ、積数計算により(千餘里、四千餘戸)と同じ数字が算出できます。実数距離は別の積算で算出します。

<距離>

狗邪韓國、七千餘里。始度一海千餘里、至對馬國、方可四百餘里。又南渡一海千餘里、名曰瀚海、至一大國、方可三百里(実測しているので餘は記述していない。)

又渡一海千餘里、至末廬國。

<実測していない例外 面積>

自郡至女王國、萬二千餘里=自らの女王國の郡をおき、國の領土は一萬二千里=東京都の大田区、世田谷区を合わせた面積。

 

<誤訳通説読み下し>

東南に陸行、500里で伊都国に到る,官は爾支(にき)という。副は泄謨觚(せもこ)柄渠觚(へくこ)という。1000餘戸が有。

世、王が有り、皆、女王国に属する。帯方郡の使者の往来では常に駐する所である。

 

<注釈>

約37万字に及ぶ『三国志』(それに付けられている裴松之〔372~451年〕の注は、本文に匹敵する約36万字)のすべてに目を通すだけではなく、

陳寿の世界観を形成している儒教の経典(四書五経)に通じなければ分からない)と述べている。

 

邪馬壹(臺)国論争は、江戸時代の新井白石本居宣長らに始まり、「邪馬台国畿内説」および「邪馬台国九州説」が現在も論争があとを絶たない。

邪馬壹(臺)国論争は所在地だけが論争され、政争、文化(交易産業)先徒(学校)日常の営みは誤訳だらけで、学者、大学教授等は浅知恵解釈に明け暮れている。

 

< 東南陸行     到伊都國 >

Aルート=積算算出で表れた距離の地域(神埼郡(かんざきぐん)近郊、葛籠城跡、勝尾城筑紫氏遺跡)

吉野ヶ里歴史公園の伊都國(仮説)については現在の経路(国道、県道 )距離計算上は誤差が出る。城郭跡 

神埼郡(かんざきぐん)近郊

勝尾城筑紫氏遺跡

壬子(西暦232年4月9日)伊都國へ到る。

 

<経路>

Bルート

壬子(西暦232年4月6日(5日、平戸泊)6日、出発→(6日、現松浦市泊)7日、出発→(7日、現唐津市内陸県道分岐点泊)8日、出発→(9日、山越え、泊)現多久市経由(10日着、現小城市経由→神埼郡)  

吉野ヶ里歴史公園 伊都國 距離は一致するが、到着日時が遅れる矛盾が起きる。

 

壬子(西暦232年4月10日)伊都國へ到る。

記述に矛盾が起きる、たかが1日、されど1日である。

 

<解読>

東南陸行五百里到伊都國官日爾支副日泄謨觚柄渠觚有千餘戸=東南陸行、(露田=田んぼ)五百里に及び行きわたる、伊都國である。四月九日から四月十六日で離れる。

四月九日から四月十六日で離れる。

 

 

<下記の漢文記述は二つの意味があります。>

<解読 積数算出日時 1>

官日爾支副日泄謨觚柄渠觚

官日爾支=四月九日

副日泄謨=四月十六日

 

<解読 漢文(借字)読下し 2>

爾支(借字)=じし=地子=公田の余地を人民に貸し付けて耕作させ、収穫の5分の1を国家が収納したもの。(注 公と兵、人民との分配率は不明。)

泄謨觚=(注 1泄=えい=少しずつ外へ出る。例:排泄(はいせつ。注 2謨=も=はかる。注 3觚=こ=中国で殷代、周代に使用された青銅製の酒器。器の形。)

柄渠觚=(注 4柄=へい=刀剣や弓などのにぎる部分。てんびん棒。注 5渠=きょ=みぞ。掘り割り。地面を掘って作った水路。小川。注 6觚=前文同意 ) 

 

<解読>

暗渠排水で(泄=途中の水漏れ)を防ぐことに欠かせない勾配を測量するための水平器として觚柄觚の初めて見る道具を使用していた。

<参照図>

水平器

https://ameblo.jp/millimeter-wave/entry-12031894039.html

https://kotobank.jp/word/%E8%A7%9A-61199

<注釈>

四月九日から四月十六日の七日間で国税調査団が詳細検分を行う。

(注1 露田=田んぼの実測測量、南春米の田植え状況、露田の土木技術方法)

(注2 戦の武器の在庫。刀剣等、弓、矢=矢じりの種類等)記述されている國で同等の検分が行われます。)

 

<通説誤訳>

官日爾支、副日泄謨觚柄渠觚=官職ではありません、この後も通説では官職としていますが、でたらめ解読で日本史の計り知れない汚点です。

官(日)爾支、副(日)泄謨觚、柄渠觚=通説解読=(日)は飛ばして誤解読、でたらめに漢文を切り刻む誤解読

 

<注釈>

北魏から隋までは露田(樹木の植わっていないはだかの地の意)とよばれたが,個人に割り当てられた田土の意味でこの語が普及し,唐の田令では正式呼称となった。

 

<解読>

家屋1000餘戸、魏国朝廷の郡使として検視、

<注釈>

田植えの時期となります。

 

<解読>

丗有王 皆統屬女王國 郡使往來常所駐=(伊都國)は三十才過ぎの王で、皆、卑弥呼女王に統属している、常に(倭國)の属國郡使が常駐している。

叉、五百兵が警護している。

 

<解読について補足>

裴松之陳寿の世界観を形成している儒教の経典(四書五経)に通じなければ分からない)と述べている。

陳寿は表音漢字(借字)特殊文法活用で綿密に記述しています、さすが古代中国の才人です。倭国(日本)の史記古事記、日本書記)においては、残念ですが音読み、訓読みが入り乱れやや文法が崩れています。

 

加筆や編集されていない万葉集に属している史記雄略天皇額田王天武天皇の詩)は倭国漢文特殊文法にアレンジしていますが美しい文法になります。

 

万葉集で代表歌人柿本人麻呂山上憶良、(太 安万侶=古事記、日本書記)記述の表音漢字(借字)特殊文法活用は乱れていて解読に困難を極めます。

 

古代中国の唐時代の末期の史記も同様に北方民族の政権でこの文法は消滅したようです、日本では平安時代清少納言の歌(かなの返歌)を検証した結果、解読しての返歌でした。